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社説・コラム

『想』 切明千枝子 セピア色の写真

 広島市皆実町(南区)に一軒の古い家がある。大正時代にハス田を埋め立てて祖父が建て、私はそこで生まれ育った。原爆で皆実町は半分が焼失したが、わが家は半壊で残った。そこから古い写真が出てきた。なんと文久生まれの祖父が背広に蝶(ちょう)ネクタイ、慶応生まれの祖母が肩にフリルのある優雅なドレス姿で、ヤシの木を背に撮ったセピア色のツーショットである。

 祖父は広島県安佐郡中原村大字中島(現広島市安佐北区)の出身。現在JR可部線の中島という無人駅のある地だ。太田川と根の谷川に挟まれた文字通り中の島。毎秋、収穫直前の田畑が洪水で流されるという貧しい村だった。村人たちは貧乏から脱出するため、明治の中ごろからハワイやアメリカ西海岸へ集団で出稼ぎや移民で渡航した。

 祖父母も小さな貨客船で船酔いに苦しみながらハワイ島の砂糖黍(さとうきび)畑へ。ところが事前の話とは大違い。住居はヤシの葉で囲った掘っ立て小屋。低賃金で過酷な奴隷労働だった。たまりかねた祖父母たちは大脱走を計画。ある晩キラウエア火山の溶岩流で足裏に火傷を負いながらヒロの港へ逃げ、あり金はたいて船をチャーター、オアフ島へ。雇い主は追ってはこなかった。

 オアフ島で男たちはまたも砂糖黍畑で働き、女たちは白人家庭のメイドに。祖母はメイド時代にミシンの使い方、バターの作り方、ケーキやローストビーフの焼き方などを学んだ。祖父は終生「トマト」を「トメイト」と発音した。

 それにしても、当時の農民たちのなんという向こう見ずの海外渡航‼ 波瀾(はらん)万丈の冒険小説さながらの本当の話である。その後、生活は安定。ホノルルで父が生まれる。祖母は永住を望むが、「じいちゃんが、日本に帰らんとご先祖さまにられるいうて…」、父5歳の時帰国。わが家の歴史の一こまである。

 祖父は太平洋戦争開戦直前に病没。祖母は原爆による負傷が原因で死ぬ。祖父母のハワイの話を聞きながら育った孫の私は今89歳。原爆をくしくも生き延びて、何ともはや往時茫々(ぼうぼう)だ。(広島市原爆被害者の会理事)

(2018年5月2日セレクト掲載)

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