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連載・特集

東京のヒロシマ <1> 被爆地蔵(目黒区)

顔の傷痕 あの日伝える

 東京都目黒区の常円寺の境内に一風変わった石仏がある。手のひらより一回り大きい顔だけが、直方体の石にはめ込まれている。優しい表情だが、額には複数の傷。1945年8月6日、広島で被爆した痕だ。

 石仏は元々、広島県産業奨励館(現原爆ドーム、広島市中区)そばの西蓮寺で「子育て地蔵」として親しまれていた。寺は爆心直下。あの日、香月崇海住職は戦地にいて被爆を免れたが、妻ヒサコさんは庫裏で命を落とした。地蔵は胴や頭の一部が壊れ、顔が残った。

 その顔が東京に移されたのは被爆から数年後。復員し、原爆に遭った子どもの支援に尽力していた香月住職が、広島を訪れたボーイスカウト東京都連盟初代理事長の村山有さんに譲ったと伝わる。村山さんがその後、自宅近くの常円寺に託したという。

 以来、常円寺は毎年8月6日に被爆者の供養を続ける。地蔵のことを知った地元の被爆者団体の要望で87年からは法要を営む。近年は8月に区内の児童会が千羽鶴を供えに来るようにもなった。

 香月住職も村山さんも既に亡くなっている。「広島の住職は東京の人たちに原爆の悲惨さを伝えたくて、地蔵尊を手放したのではないか」。常円寺の古河良晧(りょうこう)住職(69)は推し量る。先人の思いに応えようと、子どもたちに被爆後の広島の写真などをまとめた自作のスライドを見せながら、平和の尊さを説く。

 夏に寺を訪れる児童会メンバーは年々増え、昨夏は約200人に上った。「子どもの健やかな成長を見守る地蔵尊も喜んでいるはず」と古河住職。広島の「生き証人」を代々、守り続ける覚悟だ。

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 被爆地から遠く離れた地にもヒロシマを胸に刻み、発信を続ける人がいる。被爆73年。東京に根付く、地道な営みを紹介する。(田中美千子)

(2018年5月3日セレクト掲載)

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