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連載・特集

被爆者とともに 山口・ゆだ苑50年 <上> 癒やしの施設

温泉で保養 交流の拠点

 11日に設立50年を迎える山口県原爆被爆者支援センターゆだ苑(山口市)は、温泉保養施設として低料金で被爆者に癒やしの場を提供するほか、集団健診など幅広い活動を展開してきた。施設は今はなく、活動団体として援護や平和運動を続ける。被爆から73年。転機を迎えるゆだ苑の歩みを振り返り、新たな活動の道を探る。(門脇正樹)

 温泉保養施設の建設基金の領収書、集団健診の様子を収めたアルバム、被爆証言集。県自治労会館にあるゆだ苑の事務所は山口の被爆者援護の歩みをたどる資料を展示する。「施設は被爆者同士が心を通わせる貴重な場だった」。6代目の理事長である山口大の岩本晋特任教授(75)=山口市=は活動を振り返る。

 ゆだ苑は1968年5月11日、山口市の湯田温泉街の一角に保養施設として産声を上げた。「被爆者治療に温泉が効く」とする県被団協の意向をくみ、3階建てのビルに湯田温泉の湯を引いた浴場や宿泊用の大部屋13室を設けた。事業費約5千万円の大半は寄付金で賄った。県民の3分の1が寄付したともいわれる。

年2万5000人利用

 「組合員や家族に被爆者がたくさんおったから」。ゆだ苑理事で企業労組役員として設立に関わった井上護さん(73)=周南市=は当時をしのぶ。68年に同県で被爆者健康手帳を持つ人は5720人。人口比では広島、長崎に次ぎ全国で3番目の多さ。だが、両被爆地のように被爆者への行政の援護は手厚くなかった。原爆への理解も高いとはいえず、被爆者同士がおおっぴらに集まれる施設もなかった。「何とかせにゃとの気持ちでいっぱいだった」

 ゆだ苑は開業5年目には年約2万5千人が利用するほど盛況をみせた。収益や県補助金で毎年広島から医師を招くなどで集団健診をしたり、被爆者が描いた原爆の絵展を開いたりした。

遺骨収集や慰霊

 また、73年には山口市の旧山口陸軍病院跡地に被爆軍人の遺骨が眠っていることが分かり、ゆだ苑の運営メンバーらを中心に2日がかりで十数人分の遺骨を掘り出した。

 この出来事を記念し、遺骨が見つかった場所に原爆死没者之碑を建立。掘りだした9月6日を「山口のヒロシマデー」と定め、75年から原爆死没者追悼平和式典を開いている。

 ゆだ苑現理事長の岩本教授が活動に加わったのはこの頃。山口大教授で後に理事長となる安部一成さん(2011年死去)に誘われたのがきっかけだった。

 ゆだ苑の運営はその後、人件費の増加や利用者の減少で次第に傾いた。決定的だったのは1990年代のバブル期だ。個室でくつろげる本格的な温泉宿が周囲に相次ぎ開業。「大部屋に雑魚寝」で老朽化したゆだ苑からは被爆者の客も離れていった。累積赤字が膨らみ銀行から借金を始めた。理事長の安部さんはついに94年、「他に道はない」と売却話を理事会で切り出した。反対意見はなかった。

 建物と土地は自治労県本部が買い取った。理事会は売却費で借金を清算し、残った約1億1300万円を基金とした。建物は95年6月に解体され、保養施設としてのゆだ苑の歴史は幕を閉じた。活動団体としてのゆだ苑は以降、基金を取り崩しながら被爆者援護と平和活動に専念していく。

≪ゆだ苑の歩み≫

1965年 8月15日 被爆者のための温泉保養施設の設立準備会発足。
  68年 5月11日 山口市の湯田温泉にオープン。
  70年 5月 被爆者集団健診スタート
  73年 9月6日 旧山口陸軍病院跡地で被爆軍人の遺骨を発掘
  74年 9月6日 同跡地に原爆死没者之碑を建立
  75年 9月6日 同碑前で第1回原爆死没者追悼平和式典を開催。この日は           以降、「山口のヒロシマデー」に
  80年 2月 被爆証言集「語り」の第1巻を発行。90年2月に最終の第7         巻を発行した
  92年 8月 経営難で設立以来初めて銀行から1千万円を借り入れ
  95年 5月11日 自治労県本部に施設を売却
     6月4日 施設を取り壊し

(2018年5月11日朝刊掲載)

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