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社説・コラム

『私の学び』 語りかけボランティア 斉藤泰子さん

残留邦人の向学心励み

 「中国残留邦人」と呼ばれる人たちを知っているだろうか。1932年の旧満州国(中国東北部)建国以降、開拓団として国策で派遣され、戦後の混乱で現地に取り残された人たちだ。広島からは全国で8番目に多い約1万1千人が渡った。

 戦後数十年を経てようやく帰国がかなった彼らを待ち受けていたのは、言葉の壁と生活習慣の違い。さらに、老いが忍び寄る。孤独を感じながら老後を過ごす不安はいかばかりか―。寂しさに寄り添いたくて2月から、あるボランティアに励んでいる。

 県内の介護施設などを利用する残留邦人向けに、中国語で話し相手になる「語りかけボランティア」。登録する34人が月1、2回施設を訪問する。世間話や昔話など、たわいないおしゃべりを楽しんでいる。

 元々は中学校の数学教師。2000~08年に二葉中(東区)の夜間学級で教えていた時、初めて残留邦人と出会った。1学年約20人いた生徒のうち、大半を占めていた。

 中国農村部で育ち、高等教育を受けていない人が多かった。日本政府の帰国事業が遅れ、中高年になって帰国したため日本語も不自由。安定した仕事に就けないため、生活再建はままならない。学びのハードルは高かった。それでも皆が前向きに「勉強したい」と強い意欲を持っていた。そんな彼らの姿勢に突き動かされたことが、私自身の新たな学びへとつながった。

 少しでも力になりたい―。思いは募り、コミュニケーションを取るために中国語の勉強を開始。テレビ講座や北京への語学留学で日常会話をマスターした。彼らに日本語を教えたいと中学を早期退職し、日本語教師の資格も取得した。残留邦人の歴史にも触れ、体験談を聞いたり手記を読んだりして理解を深めた。

 これまでは、日本に住んでいれば自然と日本語を話せるようになると思っていた。しかし彼らの背景を知り、自分で中国語を学んだことで初めて、年を取ってからの語学習得がいかに大変かを痛感した。

 残留邦人にとって戦争は過去のものではない。苦労を重ね、ようやく帰った祖国で幸せに、心穏やかに暮らしてほしい。人生の転機となった彼らとの出会いに感謝し、老後を支えていきたい。(聞き手は栾暁雨)

さいとう・やすこ
 1955年、広島市西区生まれ。広島大教育学部卒。中学教諭として幸崎中(三原市)や五月が丘中(広島市佐伯区)などで数学を教え、日本語教師になるため2008年に退職した。海外旅行が趣味。西区在住。

(2018年5月28日朝刊掲載)

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