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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 河内政子さん―強烈な光 体中にガラス

河内政子(こうち・まさこ)さん(89)=広島市東区

家は焼け、父も母も姉も白骨になっていた

 「平和を信じ、無念の思いで亡くなった人たちの死を無駄(むだ)にせず、次世代につなぎたい」。河内(旧姓友竹)政子さんは89歳になった今も、被爆体験を語っています。

 当時、広島市立第一高女(現舟入高)4年の16歳でした。自宅は爆心地から約400メートルの塚本町(現広島市中区)にあり、父軍一さん(当時48歳)が繊維(せんい)製品などの卸問屋を営んでいました。8月6日は学徒動員先の工場が休みで、前日夜から、爆心地から約2・1キロ離れた牛田町(現東区)の祖母宅へ行っていました。「空襲(くうしゅう)があったら一家全滅(ぜんめつ)してしまう」と、両親に強く勧(すす)められたからです。

 朝、久しぶりの休みがうれしくて庭へ出て散歩し、玄関(げんかん)へ入った瞬間(しゅんかん)でした。「ピカッ」と強烈(きょうれつ)な光を感じたのと同時に、崩(くず)れた家が覆(おお)いかぶさり、下敷きになりました。意識が戻った後、わずかな隙間(すきま)からの明かりを頼りに脱出。体のあちこちにガラスが刺(さ)さっていました。庭にあった防空壕(ぼうくうごう)へ飛び込むと、血だらけの祖母がいました。2人で近くの山の方へ逃げることにしました。

 「どうか生きていてほしい」。広島の街が焼けるのを見ながら、家族の無事を必死で祈(いの)り、夜を明かしました。7日、8日と、わが家へ向かおうとしましたが、死体がいっぱいで途中(とちゅう)までしか進めませんでした。

 ようやくたどり着いたのは9日でした。家は焼け、父は玄関の跡で、姉信子さん(当時18歳)は台所で座ったまま白骨になっていました。母マサノさん(当時46歳)は炊事場(すいじば)に横たわっていました。上半身は黒く焦(こ)げ、下半身は白骨になり、足の骨の上に包丁が乗っていました。その様子から、即死(そくし)だったと思っています。

 体が震(ふる)え、その場にしゃがみ込んでしまいました。3人の骨を拾って防空頭巾(ずきん)に入れ、胸に抱きしめて自らの死に場所を探して歩き回りました。川に入ろうにも、雁木(がんぎ)に死体が折り重なっていて、下りることができませんでした。「祖母が心配している」と思い直し、祖母の元へ戻りました。

 その後、母方の親戚(しんせき)が来て、母の実家がある亀山村(現安佐北区)まで大八車で連れて帰ってくれました。それから髪(かみ)は抜け、体中に黒い斑点(はんてん)ができました。高熱と下痢(げり)に苦しみ、意識がもうろうとする日々が続きました。2カ月たったころから回復に向かいました。

 戦後は小学校の教員になり、60歳の定年退職まで勤めました。24歳で結婚し、2人の子と4人の孫にも恵まれました。「子どもたちが戦争ごっこを楽しんでいるのを目にしてから、思い出すのもつらかった被爆体験を話すようになった」と教員時代を振り返ります。

 被爆70年の広島市の平和記念式典で市長が読み上げた平和宣言には、河内さんが寄せた文章が生かされました。「家族、友人、隣人などの和を膨(ふく)らませ、大きな和に育てていくことが世界平和につながる。思いやり、やさしさ、連帯。理屈ではなく体で感じなければならない」

 その言葉通り、証言活動では今も脳裏に焼き付いた原爆の記憶とともに、いじめやけんかをせず、思いやりの心を大切にするなど日常生活で平和を築く大切さも伝えています。これからも一回でも多く、証言を重ねるつもりです。(増田咲子)

私たち10代の感想

勉強できる環境に感謝

 「家族や友達を大切にすることが平和につながる」という言葉が印象に残りました。身近で支えてくれる人に感謝の気持ちを伝え、今まで以上に大切にしたいと思いました。また、「今の10代は勉強ができるので幸せだ」と繰り返していました。憧(あこが)れて入った学校では工場に動員されて勉強ができなかったそうです。恵(めぐ)まれた環境(かんきょう)をありがたく思いながら勉強を頑張(がんば)りたいです。(中3森本柚衣)

原爆許せない 思い新た

 当時の自宅近くの相生橋周辺へ行くと、ローラースケートで遊んだ記憶と、家族の骨を見つけて自分も死のうと川べりへ行った時の光景がよみがえるそうです。川には死体がいっぱいあり、今思い出しても胸が痛くなるそうです。幼い頃(ころ)、遊んだ場所には楽しい思い出があるはずなのに、悲しい記憶を同時に呼び覚ます原爆をあらためて許せなくなりました。(高2藤井志穂)

(2018年6月4日朝刊掲載)

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