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社説・コラム

『想』 新屋まり ヒロシマ・レクイエム

 2001年、米国はアフガニスタン攻撃に乗り出した。「悲劇を繰り返してはならない」「新たなグラウンドゼロ(爆心地)を生み出してはいけない」との広島の訴えが無視されたと感じた私は、アフガニスタン支援のCDを制作。PRも兼ねて広島市中区の被爆建物、旧日本銀行広島支店で開かれた平和イベントに参加した。

 初めて見る旧日銀内部は、被爆直後から時を止めているようだった。それから4週間、私は熱に浮かされたように創作に没頭し、6曲が生まれた。この一連の出来事は、私がシンガー・ソングライターの道を本格的に歩みだす、いわば原点となった。

 ある夏、友人から1冊の本を薦められた。奥田貞子さんの著作「空が、赤く、焼けて」との出会いだった。被爆直後の広島で袖すり合う子供たちの最期が、作者の優しい目線で描かれている。号泣しながら一気に読んだ。昨年は、被爆者で「原爆の子きょう竹会」会長の早志百合子さんと出会った。昨年8月に開いた「ヒロシマ・レクイエム」というコンサートにゲストにお迎えした。

 早志さんは、思い出すだけでもつらいはずの被爆体験を「後世に伝えなくては」との思いでお話しくださった。毎月6日に広島市内のバーで開かれる「被爆証言を聞く会」でも話してみたいと言われた。

 主催者の冨恵洋次郎さんは、コンサート直前に帰らぬ人となられたが、その後、思いがけない人から冨恵さんの遺作となった「カウンターの向こうの8月6日」が送られてきた。何かに導かれているような不思議な縁を感じながら、早志さんを今も続く会にご紹介した。

 ある被爆者の遺作となる詩を拝見したのも、ちょうどその頃。原爆で滅びゆく街と人が生々しくつづられている内容だった。文字の向こうに合唱曲のイメージが浮かび上がってきた。私の手に負えるだろうかと戸惑いもあったが、作曲を決めた。この夏の「ヒロシマ・レクイエム」で披露したいと思っている。(シンガー・ソングライター=北広島町)

(2018年6月13日セレクト掲載)

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