ヒロシマを聞く 未来への伝言 <23> 一番電車
18年6月28日
惨状 前だけ見て運転した
被爆のわずか三日後、焼け野原となった広島の街をチンチン電車が駆け抜けた。あふれんばかりの客を乗せて走る「一番電車」。その姿が市民を勇気づけたことは、今も語り継がれている。
元広島電鉄社員の山崎政雄さん(76)=廿日市市=は、その試運転のハンドルを握った。
運転士になって一年余りだった。爆心地から約二・五キロの己斐駅(西区、現西広島駅)。当直明けの点呼を終え、帰り支度のため駅舎二階に上がった直後、閃光(せんこう)を浴びた。数分前までせわしなく行き交っていた利用客がホームに血だらけで横たわる。燃える街を遠巻きに見て、がくぜんとした。
軍の支援もあり、市内線の己斐駅―西天満町電停間(約一・四キロ)の軌道は八月九日までに復旧した。山崎さんは、上司の指名で試運転の運転士を任され、陸軍兵士らと一両の車両に乗り込んだ。一部倒壊した鉄橋を渡るときには体が震えた。がれきからはみ出る黒焦げの遺体を直視できず、前だけを見て走らせた。
往復で約三十分間の運行を終えると、それまで味わったことのない疲労感に襲われたという。本格運行は、同僚に委ねた。
数年後、「一番電車は希望の象徴だった」と人づてに聞いた。誇らしく思う一方、運転台から見た惨状は脳裏に焼き付いて消えない。自身がそれを運転したことは家族にも言えず、記憶の奥底にしまい込んできた。昨年夏から、地元の小学校や公民館で被爆体験を語り始めたものの、やはりほとんど触れられない。
一番電車のエピソードは、広電社史の冒頭でもつづられている。しかし六十年たった今、定年退職した山崎さんの運転台の苦悩を知る社員は少ない。
真相に迫りたいと、運転士の松川達也さん(28)と車掌の加藤奈緒さん(27)が山崎さんを訪ねた。一番電車がかつて折り返した天満町(西区)の軌道を先輩とともに歩いた。そして、広電千田車庫(中区)へ。今も現役の被爆電車に乗り込み、山崎さんが封じてきた記憶を解きほぐした。
被爆者から若者へ
山崎政雄(やまさき・まさお)さん(76)
1943年に広島電鉄に入社し、定年退職まで務めた。被爆体験を語り始めたのは昨年から。一番電車の運転士だったことをマスコミ以外に詳しく話すのは今回が初めて。
松川達也(まつかわ・たつや)さん(28)、加藤奈緒(かとう・なお)さん(27)
松川さんは島根県金城町、加藤さんは福山市出身。2人とも、一番電車は「物語」の感覚で受け止めてきた。被爆者と会い、体験をじかに聞くのは今回が初めて。
(2005年5月1日朝刊掲載)
ヒロシマを聞く 未来への伝言 <23> 一番電車 被爆者から若者へ