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ヒロシマを聞く 未来への伝言 <23> 一番電車 被爆者から若者へ

ゆっくりゆっくり運行した

運転台の外は地獄さながら

 原爆投下の三日後、「一番電車」を走らせた元広島電鉄社員の山崎政雄さん(76)の体験に、後輩社員である松川達也さん(28)と加藤奈緒さん(27)が耳を傾ける。今も現役で走る被爆電車の運転台。あの日の光景が、よみがえる。

 松川 被爆されたとき、電車に乗っていたのですか。

 山崎 わしは駅舎の二階におった。

 己斐駅(西区、現西広島駅)だった。午前八時までの夜勤を終え、帰り支度をしていた。

 山崎 ピカッと光って窓ガラスが飛んできた。机の下に潜って何とか助かった。柱をつとうて下へ降りると、けが人がいっぱい。ホームにいたお客さんは倒れたり、けがをしたりで右往左往しとって、わしもひどうに戸惑うた。地球がひっくり返ったんじゃあないかと思うた。

 千田町(中区)の本社に向かうよう命じられ、市中心部を目指した。

 松川 行きたくないと思いましたか。

 山崎 行かにゃあいけんような気がしとったがねえ。火の手を見たら…。土橋(中区)のへんで、黒焦げの人がおったからね。たまげて。郊外の方へ、みな避難しようるじゃろう。(見知らぬ人から)「あんたは逃げるのがさかしいじゃ。次の空襲が来る。どっち行きよるんか」と言われて己斐へ引き返した。

 その後、「黒い雨」に打たれながら、河内村(佐伯区)の実家を目指した。昼すぎに着いたという。

 加藤 光景は頭に焼き付いてますか。

 山崎 「助けてください、水ください」と言うのがね。市内の同期生は亡くなったし…。

 松川 同期は何人いたのですか。

 山崎 男が五十人くらい。ほかに(広電)家政女学校の生徒が百五十人くらい。

 加藤 女性の方も運転を。

 山崎 家政女学校の一期生、二期生は運転しよったね。午前中は勉強、そのかたわらで仕事をさせよった。

 加藤 やっぱりそれは、軍隊で取られて足りないからですか。

 山崎 元気な人はみな軍隊に行って、駅長さんみたいな年寄りと若いんばっかり。

 加藤 (原爆投下は)電車が走ってる時間ですね。

 山崎 電車を運転しよって亡くなった人もおる。八丁堀(中区)とかね。

 七日、山崎さんは再び己斐駅に。その晩は駅舎を警備して泊まった。

 山崎 代わりの者が出てこんから帰るわけにもいかん。

 そして九日午後、路面電車の試運転を任された。

 山崎 ほかにできる者がおらんので恐る恐る。鉄橋が落ちるかも分からん。ゆっくりゆっくり、何とか運行した。遺体も見とるから、複雑な気持ちで…。

 社員や軍人ら十人余りを乗せ、西天満町電停(西区)へ向かった。現在の天満町電停辺り。往復約二・八キロに約三十分を費やした。

 加藤 町が壊滅的な状態だったじゃないですか。そのなかを走るのはどんな気持ちですか。

 日に焼けた山崎さんの表情がこわばり、一瞬、間があった。

 山崎 動いたときはうれしかった。みんな「電車が動くじゃないか」とたまげて見てくれたんがね。誰しも、あの状態で電車が動くとは考えんかったから。生活をどうしていくんじゃろうかというとき。いいことをしたんじゃないかという気もする。(復旧は)軍隊のおかげでもあった。(倒れた電柱を起こすのに)ロープをかけてトラックで引っ張るんじゃけえ。わけはない。

 運転台から見た光景について後輩たちはさまざまに問いかけるが、山崎さんは「複雑な気持ち」と言ったきり話をそらす。事前に記者には話した、がれきの間からのぞく黒焦げの手や足を見たことなどはほとんど語らない。目を赤くしている。

 山崎 (宮島線沿いの)草津(西区)や地御前(廿日市市)が被爆者収容所になっとったわけね。負傷者を電車で運んだです。この人は、はあ死んどるんじゃないかいう人もおったですがね。動けんようになったり、やけどをした人も。よう運んだ思う。地獄さながらじゃけえ。

 松川 己斐には動ける電車は何両?

 山崎 二両か。

 加藤 郊外(宮島線)は全線大丈夫だったんですか。

 山崎 ええ。己斐をのけてはね。草津から己斐までがなかなか復旧できんかった。お客さんは、けが人やら、市内へ家族を捜しに行く人ばかり。ただで乗っても(料金をとは)言わりゃあせん。銭金じゃなかった。

 加藤 市民のためにという感じで。

 山崎 ええ。それだけだったですね。

 山崎さんは被爆の約一カ月後、下痢で会社を一週間休んだ。そのころから、戦地に出向いた先輩社員が帰ってきた。

 山崎 会社へ復帰した人が少ないんよね。田舎へ帰って出て来んのんよ。会社が続くもんやらどうやら分からんし。

 松川 (山崎さんは)広電に残ろうと。

 山崎 田舎に帰っても何してええか分からんし。おやじが十五歳のときに亡くなっとるんですよ。弟や妹がおったんで、仕事をせんことにゃあ食うていけんので。

 加藤 定年まで勤められた気持ちは。

 山崎 やり通した喜びと、広電がそこまでになったいう喜び。つらいことは多々ありました。京都市電、大阪市電と廃止になって、電車がないなる時期じゃった。そこを頑張って、苦労して苦労して。

 加藤 原爆のことを忘れることはできなかったのですか。

 山崎 死んだ同僚やら先輩やら…。生きて永らえたんも、何かの縁じゃろうから。それに報いにゃあいけん気はあったですね。一瞬にしてあれだけの人を地獄のなかに落としこんだ。後になっても急に発病したり、倒れて亡くなっていくと聞いたりね。ひどいもんじゃなあ。

 話し声が次第に小さくなった。

 山崎 己斐の駅前が枕木の置き場だったんですよ。そのへりが防空壕(ごう)。そこへ遺体を入れて枕木で焼きよった。夜になったら。

 加藤 いっぺんにですか。

 山崎 何人も遺体を入れて、火をつけて。どなたの遺骨やら分からんですよね。そのにおいがまたきつかった。

 加藤 枕木を使われるってのもまた、嫌なことですよね。電車に携わっていたら。

 うつむく山崎さん。沈黙が増す。

 松川 孫、ひ孫の代まで伝えてほしい気持ちは。

 山崎 小学生らに伝えていかにゃあいけんというのは分かっとっても、勇気がなくてできんかった。四、五年前かなあ、がんでいつ死ぬか分からんような状態になって、後世に残さんといかんいう気になった。亡くなった先輩や同僚のためにも、(体験を話すのは)やっていかにゃあいけんと気づいた。

 山崎さんは、子どもたちから届いた手紙や絵を二人に見せた。昨年夏から小学校などで証言活動を始めた。ただ、一番電車のことは明かせず、己斐駅での被爆体験までにとどめている。

 山崎 原爆の恐ろしさがよく分かって、二度と戦争が起こっちゃあいけんという手紙がくると、ええことをしたんかなあと思うよね。今の人はわしのやったことを、どう思うとってかのう。

 松川 走るかどうかが分からない。脱線するんじゃないか…。僕がその立場だったら怖いですね。

 加藤 私たちには、電車が走っているのは当たり前。でも、今があるのはそのときに頑張った人のおかげと感じました。これからは、電車に乗る気持ちも変わりそうです。

語り終えて

山崎さん

閉ざした心開けた

 被爆三日後に走った一番電車は六十年たった今、事実というより物語として伝わっている。市民の希望の象徴。それがすべてだろうし、その裏にあったわしの気持ちは、別に伝えんでもええと思っていた。

 六年前に大腸がんを手術した。生き永らえたのも何かの縁と、被爆体験を語り始めた。一番電車のことは思うように言えんから、マスコミ以外の人にしゃべったんは初めて。うまくできたかどうかは分からんが、感じてもらえてよかった。ありがとう。

聞き終えて

松川さん

同じ立場なら怖い

 一番電車の運転士と話ができるとは夢にも思わなかった。脱線するかもしれない。橋が崩れ落ちるかもしれない。遺体もあちこちにある。同じ立場に置かれたらと思うと、正直怖い。

 何もなくなった街に電車が走ったことは、本当に市民に元気や勇気を与えたと思う。証言を聞く機会を増やし、後世に伝えられるようにしないといけんなあ、と思った。

加藤さん

私も体験伝えたい

 電車は「そこにあるもの」だと思い、何げなく仕事をしてきた。今の電車があるのは、あの日頑張った先輩たちがいたからだと思うと、毎日乗る電車に対しての考え方が変わった。

 山崎さんには、これからもいろんな場所で、たくさんの人に体験を話してほしい。きっと私みたいに感じる人はたくさんいると思う。私もみんなに伝えたい。

担当記者から

涙見るたび「継承」問う

 当時の運転台に座った心境になると、山崎さんの口調が重くなった。車外の惨状をはぐらかすかのよう。私たちは、若者を後押しするため割って入った。

 すると「思い出すんはつらい」。本心を口にした山崎さんは目頭を熱くした。静かに耳を傾けていればよかったかもしれない。でも焼け野原の街を平常心で走ったとは思えない。

 どこまで記憶を引き出せば継承と言えるのか。老いた被爆者の涙を見るたび考えさせられる。(桜井邦彦、門脇正樹)

被爆後の路面電車
 広島電鉄の社史などによると、社員や軍関係者ら約40人が原爆で壊滅状態となった広島市内の軌道路線の応急修理に当たり、1945年8月9日に己斐―西天満町間が復旧した。爆心地から約15キロの廿日市変電所(廿日市市)からの送電を頼りに、被災を逃れた車両による折り返し単線運転が始まった。

 広電家政女学校の生徒らが車掌を務め、被災で財産を失った市民からはしばらくの間、電車賃を取らなかったという。同年9月までに市中心部の軌道路線が復旧し、48年12月に全線開通した。

 被爆した車両は現在も4両が現役で、市内線を走っている。

(2005年5月1日朝刊掲載)

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