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ドーム再生 平和へ願い込め “歴史の証人”永久保存 けさ完工式

 原爆ドームの保存工事が完成し広島市は5日午前9時から現地でその完工式をあげた。国の内外の世界平和を願う人たちから寄せられた寄金でくずれかけたドームは見事に再生した。この工事完成によって戦争の惨禍と核兵器の恐ろしさを伝える“歴史の証人”は永久に保存されることになった。

 完工式には山田広島市長、浅尾同市議会議長をはじめ、原爆ドーム保存を決め、全国募金の先頭に立った浜井信三前広島市長、永野広島県知事、桧山同県議会議長(代理)ら市、県関係者のほか堀井利勝総評議長、武見太郎日本医師会長、山高しげり全国地域婦人団体連絡協議会長、林寿彦国際青少年協会総主事、内山尚三世界平和アピール七人委員会事務局長、一般募金者、それに広島市で開催中の原水禁大会に参加している内外人ら約500人が集まった。

 樋口正司氏(広島市立白島小学校長)指揮の広島少年合唱隊約100人の歌う「広島市歌」が流れるうちに午前9時きっかりに開会、山田市長が「原爆ドームは戦争への警告として使命を果たすだろう」とあいさつ、永野知事、浜井前市長、林総主事、内山事務局長らが次々にお祝いのことばを述べた。

 中でも浜井前市長は「お祝いというよりお礼を言いたい」と前置きして「募金が目標を達成できたのは、ヒロシマを繰り返すなという悲願が世界に燃え続けていることを証明した。このドームは戦争の悲惨な事実を刻みつけている」とあいさつすると、会場から期せずして拍手が起こった。

 式は同合唱隊の「広島平和の歌」で予定通り同9時40分終わったが、閉会後も多数の人が再生したドームを感慨深そうに見守っていた。

 原爆ドーム保存工事は、全国募金でまかなう方針で昨年11月1日から4千万円を目標に市が寄金を呼びかけたところ、3月14日に目標を突破、締め切られた。しかし、締め切って約5カ月たった現在もなお、広島市には募金が届けられ、5日正午現在1万1,174件6,680万4,252円が国の内外から寄せられている。

 市はこのうち5,100万円をドーム補強費に、1,300万円をドーム周辺の公園整備費に当て、4月10日から着工した。原爆の爆風による痛みだけでなく、22年の風雪でぼろぼろになったドームは、大小1万を越えるヒビ割れができ、その穴埋めに強力接着剤エポキシ樹脂18トンが使用された。

(1967年8月5日夕刊掲載)

原爆ドームの保存まで

「ユネスコ世界遺産 原爆ドーム―21世紀への証人」
(1997年 中国新聞社刊)より

被爆5年後に「原爆ドーム」の呼称

 がれき状になった産業奨励館が「原爆ドーム」と呼ばれ始めたのはいつごろからだろうか。「物産陳列館から原爆ドームへ」によると、「建物の頂上円蓋(えんがい)が傘状になっている姿から、いつ頃(ごろ)からともなく、市民の間の誰(だれ)いうともなく自然に言い出された」「昭和二十年代の初めにはまだその言い方は一般化していなかった」となっている。

 中国新聞紙上で「ドーム」という言葉が出てくるのは、一九四八(昭和二十三)年八月二十四日付の記事。米国のニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙が八月六日付で広島の復興ぶりを写真とともに紹介した、という記事の中に「元産業奨励館のドーム」という表記がみられる。「原爆ドーム」という言葉が初めて登場するのは、一九五〇(昭和二十五)年六月二十三日付の社説「観光への忠言」。アメリカの経済人が広島を視察して行った提 言を紹介し、観光対象物として、瀬戸内海と厳島とともに「原爆ドーム」という表現で挙げている。社説はこれらの観光名所が「どこにも劣らないだろう」と評価し、受け入れサービスの重要性を説いている。

 また、翌五一(昭和二十六)年八月六日には「原爆ドーム思い出帳」という記述もある。

 このころから「原爆ドーム」の呼び名が一般化されたといえそうだ。

保存か取り壊しか―最初の試練

存廃論議が活発化

 原爆で一瞬にして大破、全焼したが、倒壊を免れて円蓋の鉄枠が爆風のすさまじさを刻む広島県産業奨励館。その廃墟には、被爆直後から学術調査団をはじめ、当時駐留していた連合軍兵士らが次々に訪れた。

 四七年十二月、そばに平和記念碑が建てられ、四八年には広島市が「原爆記念物」として保存設備工事を実施。翌四九年八月六日、平和記念公園の設計コンペで一席となった建築家丹下健三氏のグループの構想には、原爆ドームが平和記念公園の中心軸に位置付けられるなど、四七年ごろから散発的に起きていた「原爆ドーム」の存廃論議が活発化した。

 四九年十月、広島市は「広島原爆体験者についての産業奨励館保存の是非と平和祭への批判と希望に関する世論調査」を実施した。調査は市役所十八出張所のうち、被害が軽微だった六カ所を除く十二カ所を対象に、五百人を任意抽出し、四百二十八人が回答を寄せた。

 五〇年二月十一日付の中国新開は、その結果を報じている。

―産業奨励館の残ガイの保存を望むか

 「望む」六二%。「取り払いたい」三五%。「意見なし」二・六%。

 その理由は「記念のため」五〇・四%、「戦争のいましめ」四〇%、「平和の象徴」など。また、取り払い希望者は「惨事を思い出したくない」が圧倒的で(六〇・九%)、その他残ガイは「平和都市に不適」「実用的施設に用いよ」という声もあった。

 原爆ドームの保存を望む声は六割を超え、おおむね市民は原爆遺跡としての保存に賛同していた。

 一方、五二年八月六日付の中国新聞紙上の座談会「〝平和祭〟を語る」で、被爆者だった浜井信三広島市長はドーム保存について「金をかけさせてまで残すべきではない」と、不要の考えを示した。座談会には大原博夫広島県知事、森戸辰男広島大学長らが出席。原爆遺跡の保存をめぐり、次のような発言があった。

 浜井 私は保存しようがないのではないかと思う。石の人影、ガスタンクとも消えつつあるし、いま問題となっているドームにしても金をかけさせてまで残すべきではないと思っています。

 大原 敵慨(てきがい)心を起こすのなら別だが、平和の記念とするのなら残さなくてもいいと思う。

 森戸 私も残す必要はないと思いますネ。あのドームも向かいの建物は残っているんだし、建物の建て方が悪いんですネ、とにかく過去を省みないでいい平和の殿堂をつくる方により意義があります。そういうものをいつまでも残しておいてはいい気分じゃない。

 当時は占領下。ドームが恨みの遺物とみられる危ぐに加え、ドームを見るたび悲痛な記憶がかき立てられるという、根強い市民感情が背景にあった。

 市内の復興につれ、原爆ドームには国内の小・中学生ら修学旅行や、ハワイなどからの里帰り、内外の観光客らが訪れた。しかし、五〇年ごろには周辺に雑草が生い茂り、建物も壁に亀裂が走るなど傷みが目立ってきた。五三年十一月十四日、広島県から広島市に譲与された後も、小規模な崩壊や落下が続き危険となり、市をはじめ各方面から撤去の声が高まった。

 こうした撤去機運に対し、五四年五月、広島県観光連盟が「市民が平和を希求しているシンボルを残そう」と、原爆ドーム保存期成同盟(仮称)の結成を呼び掛け、永久保存のため約六百万円の浄財を募る計画を打ち出すなど、保存を求める声も次第に強まった。

 五七年、広島を訪れたドイツ人作家ロベルト・ユンク氏は、中国新聞に「ドームは将来起こり得る運命への警告」と指摘した原稿を寄せ、その後の存廃論議に大きな一石を投じた。

再び存廃の試練―六〇年代

 一九六〇(昭和三十五)年代に入ると、「平和を訴える象徴」「不快な記憶を呼び起こす」と存廃に両論があった原爆ドームをめぐる世論が、保存へと大きく傾いた。きっかけの一っとなったのは、一人の女子高校生の日記だった。

保存運動のきっかけは女子高校生の日記

 六〇(三十五)年四月五日、祇園高校二年楮山(かじやま)ヒロ子さんは、十六歳の生涯を閉じた。一歳の時、広島市中区平塚町で被爆、急性白血病で闘病中だった。

 表紙に「ある日私は」と書いてある日記は、中学校を卒業した五九(三十四)年三月八日から、高校一年だった六〇(三十五)年三月十一日まで、A5判のノートにつづられている。

 原爆ドームについて触れてあるのは、五九(三十四)年八月六日の原爆の日。ドーム保存への願いが込められていた。「原爆にあった人は早く死ぬと人はいう。そういうことをきく私は、きょうあるいは明日と思う」とも書かれ、原爆症に対する恐怖もにじんでいる。

 この日記をきっかけに、六〇(三十五)年八月、広島「折鶴の会」(河本一郎世話人)のメンバーたちが立ち上がった。平和記念公園の「原爆の子の像」前で、原爆ドーム保存のための署名と募金運動をスタートしたのである。八月二十九日付中国新開は次のように報じている。

 「(広島「折鶴の会」の)会員たち約十人は『こわれかかって、取り払われようとしている原爆ドームを、私たちの手で守りましょう』と、二十八日に同(広島)市平和公園、原爆の子の像の前で原爆ドームの修理費の募金と、取りこわし反対の署名運動を始めた。(中略)同会員たちは、今月初め原爆ドームの土台がいたみ、ドームも、いつくずれ落ちるかわからないので、市は、これを取りこわそうとしている-といううわさを聞いて、市へ問い合わせたところ、修理には約八百万円のお金がいり、その費用がないと聞かされた。そこで、会員たちが相談し、市にはドームの保存を陳情する一方、同市内の目抜き通りで、修理費の募金を始めると決めたもの」

 「折鶴の会」の行動は、広島市が募金運動を始める六年前にあたり、保存に向けての具体的な動きとしては、最初とされる。当時八百万円と記述された保存工事費用は、後に予想をはるかに超えることが明らかになる。

平和団体に運動広がる

 一方、平和団体も「保存」でまとまり始めた。この年の十二月、日本原水協が「世界の原水爆禁止運動の象徴」と市に保存を要望。六四(三十九)年十二月には、前年に分裂した社会党・総評系と共産党系の二つの広島県原水協を含む十一団体が足並みをそろえ「ドームは人類絶滅と繁栄の分かれ道に立たされた核時代の記念塔」と保存を求めている。

 市は六〇(昭和三十五)年代半ばまで、被爆者の感情や財政問題を理由に、保存には消極的だった。当時の浜井信三市長は五一(二十六)年八月の座談会で「金をかけさせてまで残すべきではない」と語ったのをはじめ、六〇(三十五)年八月には「積極的に壊す気はないが、存廃はすべて世論にしたがって決める。今すぐドームに手を加える気がない」

 「被爆当時と今とでは形も変わり残酷さがなくなっているので、原爆のおそろしさを誤解されないともかぎらない」などと繰り返していた。

 浜井市長は後に「おとなたちが、つまらないことで論議しているときに〝あの子たち〟は、一生懸命に自分たちでできるドーム募金をしていた。原爆ドームはどうしても保存しなければいけないと、私の心を大きく動かしたのは、あの子たちの真剣な動きだった」と、「折鶴の会」の活動が方針転換に影響を与えたことを明かしている。

 この間、ドームの物理的な風化が進んだ。六二(三十七)年からは倒壊の危険性があるとして、市がドームの周囲に鉄さくを張り、中への立ち入りを禁止。市は保存か撤去かの判断を迫られていた。

広島市 保存へ方針転換

 国内外から相次いだ保存運動に対し、ようやく重い腰をあげた市は六五(四十)年七月、百万円をかけて初のドーム強度調査を実施。結果的にはこの調査結果が市の方針転換を促した。

 調査をしたのは、後に保存工事を担当することになる広島大の佐藤重夫名誉教授(当時工学部教授)。診断結果は「補強すれば保存できる」だった。浜井市長は、調査結果を受け「予想外の巨費が必要でないかぎり、おそらく保存することになるだろう」と、初めて保存の意思を示した。

 以来、保存への風が強く吹き始めた。市議会も六六(四十一)年七月、「保存は後世への義務」とする「原爆ドーム保存の要望」を満場一致で決議。八月には市が工費四千万円を集めるための全国募金を決め、保存が本決まりとなった。

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