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北海道からもお友だち きのう “原爆の子” の像除幕式

 十四年前、広島の原爆で幼い命を失った児童生徒一万二千、そのご原爆症で倒れていった広島市幟町中一年佐々木禎子さんら十四人の霊安かれ。「地に空に平和を」と祈りながら、子どもの日の五日金色の輝く折り鶴をささえた「原爆の子」の像の除幕式が「広島平和をきずく児童生徒の会」の手で行われた。

 五月の太陽のもとで若葉、若草がもえるような広島市中島の平和記念公園、元安川をへだてて原爆ドームを背にした式場は原爆の子らの魂に引きよせられるように全国の代表をはじめ市内の児童生徒代表、遺族、市民ら約一万(主催者推定)が集まった。午前十時十五分、広大付属高校二年岡本美佐子さんの司会で、幟町中弦楽部がベートーベン第七交響曲を奏し式が始まった。台座の中央に巻きつけられていた一筋の白の幕は、像制作の動機になった故佐々木禎子さんの弟栄二君(幟町小二年)ほか二名が紅白のテープをひいて除幕した。続いて湯川秀樹博士寄贈の銅たくを模し、表に千羽鶴、裏に「地に空に平和を」と浮き彫りされた鐘が、胸に折鶴をさげた“こけしの会”会員らの手で除幕され台座につりさげられたのち、同会員熊谷文雄君によって点鐘。献花は全国から参列している代表全員と関係者、各種団体代表らが大小の花束を像の前にささげた。

 市内中学生の筆による像真下の黒ミカゲ石に刻まれた碑銘「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和を きずくための」は、力強く幟町中三年の香川将家君がまた碑文は「原爆で亡くなった兄姉の霊をなぐさめ、世界に平和を呼びかけるために広島市小、中、高校の子どもが結集し、全国の友だちの支援のもとにこれをつくる。一九五八年五月五日広島平和をきずく児童生徒の会」と、静かに国泰寺中二年の中江千好さんが、それぞれ朗読し、終って参列者一同が、原爆の犠牲者に祈りと誓いの黙とうを行った。

 「広島平和をきずく児童生徒の会」鉄増委員長(山陽高校三年)は、完成の喜びをこめたあいさつをし、佐々木雅弘君(基町高校二年)は、全国三千百校から五百八十万円の募金とイギリスほか世界九カ国の支援を受けたと経緯を報告。像製作者菊池一雄東京芸大教授は、わが国古来の観念から将来の夢を鶴に託するので折鶴を頭上におき、これをささげる少女像は永遠的なものを象徴し、左右の二体は明るい男女の子どもを配したことなど制作について、子どもたちに話しかけるように述べた。像はそのまま式場で、会から渡辺市長に贈られ、また会は像完成までにあらゆる後援を惜しまなかった田中元逸幟町中学校長、国立東京博物館長浅野長武氏、湯川秀樹博士ら十七名に感謝の記念品を一人ずつ手渡した。

 広島の子らの純真な願いと平和への努力をたたえた祝辞は、全国の代表北海道芦別市、羽二生武夫西芦別中学校長ら七名の代表によって述べられ、像の歌“星の一つに”と、“原爆許すまじ”を参列者が合唱して、子どもたちの手でよどみなく進められた式は幕を閉じた。

 式後、佐々木禎子さんより少し前原爆症で亡くなった市内矢賀小学校の岩本さんら級友「白鳩の会」のメッセージも朗読され、像を見上げて感激のさめぬ参列者のなかで、シナリオ諸井条次氏、監督木村荘十二氏の像完成までを描いた共同映画社の映画「千羽鶴」のロケが行われていた。なお記念行事として午後一時から広島市児童文化会館で、浅野長武国立美術館長の話のほか演芸、映画などの会が催された。

(1958年5月6日夕刊掲載)

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