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連載・特集

原爆遺骨の無念 伝える 遺族の元に戻れぬまま73年

 原爆投下から73年の夏。広島と長崎には身元が分からないか、判明しても引き取られないままの数多くの遺骨が残る。その存在が歳月に埋もれるのを危惧し、死者の無念を語り継ぐ民間の営みが二つの被爆地で続いている。遺族の元に戻れぬ遺骨を守って慰霊するだけでなく、原爆による犠牲の意味を問い直し、未来への警鐘とするために。(岩崎誠、桑島美帆)

広島

呉の住職と有志 供養塔に向き合う輪 広がる

 今月6日朝。降り続く雨の中、呉市の白蓮寺住職の吉川信晴さん(81)は平和記念公園(広島市中区)の原爆供養塔の前にいつものように立ち、読経した。原爆の犠牲となり、いまだ引き取り手のない約7万人分の遺骨が納められている。

 毎月6日の犠牲者の月命日の法要。今回は供養塔を管理する広島戦災供養会のメンバーや原爆資料館のピースボランティアなど15人が参加し、吉川さんから思いを聞いた。

 吉川さんの父で、同寺の住職だった元晴さんは供養塔建立に力を尽くした一人だ。原爆投下数日後に爆心地一帯に入り、ほかの僧侶とともに1946年に広島市戦災死没者供養会を立ち上げ、市内各地に仮埋葬されていた遺骨を集めた。

 最初の供養塔から曲折を経て直径16メートル、高さ3・5メートルの盛り土の地下に納骨堂を持つ現在の供養塔が完成したのは55年8月。それを見届けるように翌年死去した父の思いを引き継ごうと母、さらに自分が有志による月命日の法要を60年以上にわたって営んできた。

 吉川さんは語った。「原爆で一瞬のうちに犠牲となり、無念の声すら上げられなかった人たちの声なき声を伝えることが、今を生きる者の務め。そうしないと同じことがまた繰り返される」。体が続く限りは毎月、この場に立ち続けようと心に決めている。

 最近は吉川さん1人だけのことも少なくない法要。今月、参加を呼び掛けたのが元原爆資料館長の畑口実さん(72)=廿日市市=だ。現在、広島戦災供養会で会長を務めるが、供養塔の存在が今は十分に知られていないとも感じている。

 40年以上、毎日のように供養塔の清掃を続けた被爆者の佐伯敏子さんが昨年、97歳で亡くなった。法要後の集いでは、その後を継いで清掃に通う平岡満子さん(76)=東区=が佐伯さんの足跡を紹介し、地道な活動の継続を誓った。

 今後も広島戦災供養会として、月命日の法要に合わせた集いを開いていく予定だ。「平和記念公園には多くの慰霊碑がある。供養塔の意味を知れば、向き合い方が変わるはずだ」と畑口さんは言う。

長崎

真宗大谷派の教区 門徒ら収集 「非核非戦」刻む

 JR長崎駅に近い丘陵地に、真宗大谷派(本山・東本願寺)の長崎教務所がある。本堂に「原子爆弾災死者収骨所」という木板が掲げられている。原爆投下の翌年、放置されていた身元不明の遺骨を集め、守り続けてきた。その数は1万とも、2万ともいわれる。

 6月9日に教務所を訪れた。「非核非戦」。大谷派長崎教区の平和理念を刻む碑の半地下部分に、遺骨は納められている。原爆犠牲者の月命日に当たる毎月9日に碑前や本堂で若手中心の僧侶や門徒らが法要を営む。この日は20人余りが参列し、法話を聞いた。

 同教区の聞き取り調査によると、長崎に進駐した米軍が遺骨の散乱したままの爆心地付近に「アトミックフィールド」と呼ばれた飛行場を計画したのが、収集のきっかけだという。このままでは重機に踏みつぶされてしまう、と。中心となったのが寺の婦人会。日々の食べ物も乏しい中で人々は遺骨を集め、荷車で運ぶ作業を繰り返した。

 膨大な遺骨は市内の寺を経て長崎教務所に仮安置され、1999年に現在の収骨所と碑が完成した。

 身元捜しに手を尽くしたが手掛かりはなく、個々の遺骨を遺族に渡すのは難しかった。その中で法要に足を運び続ける遺族がいる。山口ケイさん(78)の兄は、13歳で犠牲になった谷崎昭治さん。爆心地付近で撮影された無残な写真「黒焦げの少年」がその遺体である可能性が、おととし専門家の鑑定で示されている。

 「母はここに兄の骨があると信じていた。その思いを継ぎ、姉と一緒に毎月、参っている。大切に守っていただくのはありがたいこと」と山口さん。

 遺骨を守る意味は犠牲者の慰霊だけではない。碑の建立に携わった僧侶、清原昌也さん(47)は「遺骨に教えられるものがあった。亡くなった人の声が聞こえてきた」と語る。なぜ人間は戦争をして原爆を造り、多くの人を殺したのか。その愚かさを問い続け、「共に生きよ」と未来へ呼び掛ける場―。それが宗派としての位置付けだ。平和学習で収骨所を訪れる修学旅行生も増えてきたという。

名前判明分 各地で掲示 広島市は814人

 広島市の原爆供養塔に納められた約7万人分の遺骨はほぼ当時のまま、木箱やつぼに入っている。うち名前が分かっていても、引き取り手がいないのは814人。毎年、市が全国に発送する名簿が各地で掲示される。昨年11月には7年ぶりに1人の遺骨が遺族に渡された。ただ1970~80年代をピークに、引き取り手は減っている。

 国内外の戦没者の遺骨をどう扱うかが課題となる中で、国は沖縄戦の遺骨のDNA鑑定を実施することを決めている。原爆供養塔にある遺骨については、広島市原爆被害対策部は「大半は高温で焼けているためDNA鑑定は極めて困難だろう」とみている。

 長崎市も原爆投下で亡くなり、引き取り手のない遺骨8964人分を、平和祈念像近くに94年に完成させた市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂に安置する。広島市と同様、名前が判明している遺骨の名簿122人分も公開している。真宗大谷派長崎教務所が保管する遺骨は、これとは別に有志の力で集められた。

(2018年7月23日朝刊掲載)

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