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連載・特集

[平成という時代 中国地方の30年] 被爆者運動 核廃絶の課題なお重く

 広島、長崎の惨禍を原点に生まれた被爆者運動は、担い手の高齢化に直面している。悲願である核兵器廃絶に向けた国際世論が高まる一方、未曽有の原発事故や北朝鮮の核兵器保有など「核の脅威」は拡散し続ける。「こんな思いをほかの誰にもさせてはならない」という被爆者の訴えを、いかに次代に引き継ぐか―。重い課題は持ち越される。(石川昌義)

援護法・原爆症訴訟… 国家の壁と闘った日々

日本被団協代表委員 田中熙巳さん

 日本被団協代表委員の田中熙巳(てるみ)さん(86)が長年務めた事務局長の職を譲った昨年、大きなニュースが相次いだ。核兵器禁止条約の国連採択、そして非政府組織(NGO)「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN(アイキャン))のノーベル平和賞受賞。田中さんは「被爆者が一貫して訴えてきた核兵器の非人道性が広く世界に理解された」と評価する。

 ノルウェー・オスロでの平和賞授賞式には田中さんも招かれた。広島での被爆体験を壇上で語ったカナダ在住の被爆者サーロー節子さん(86)がメダルを受け取ると田中さんは天を仰ぎ見た。「森滝市郎さん、伊東壮さん、伊藤サカエさん…。被団協をリードした先人の面影がまぶたに浮かんだ」

 請われて2度目の事務局長に就いたのは2000年のことだ。運動の退潮が懸念される中で取り組んだのは、原爆症認定を国に求める集団訴訟だった。

 「個別訴訟で勝利を重ねても、認定に厳しい国の姿勢は変わらない。被爆者の怒りに火を付けたのは、国が01年に示した認定基準。最高裁で勝った被爆者も排除するような切り捨ての基準への対抗手段だった」。03年以降、全国17地裁で提訴。06年5月、大阪地裁で原告9人が全員勝訴する。

 原爆の日が迫る同年8月4日。広島地裁で41人が全員勝訴して救済の扉を開けた。田中さんが「まさか、ここまで」と思った全面勝利。国は08年に基準を改めて認定者は大幅に増えた。

 痛感するのは、被爆者が苦労を重ねないと転換しない国の頑迷さだ。「被爆50年が目前の1994年、自社さ政権で成立した被爆者援護法の審議過程に、国家の本質が表れている」という。

 援護法成立は日本被団協の発足以来の悲願。被団協はそこに「国家補償」を盛り込むことを訴え続ける。「戦争をしなければ原爆投下はなかった。戦争を始めた国の責任を明確にしないと、死んでいった被爆者の苦しみは報われない」。しかし、被爆者運動に協力的な社会党が加わる政権で生まれた法でさえ、「国家補償」の文言はなかった。

 「国、官僚のやることに間違いはないという戦前から続く無謬(むびゅう)論が、平成の時代もなお、社会を支配している」。東日本大震災後も決別できない原発依存。そして、米国の核の傘に依存する安全保障…。被爆者がぶつかり続けた国家の壁は、今もなお存在している。

健康不安抱える2世訴え 連絡協事務局長の平野克博さん

 「子どもの頃から、戦争はずっと昔のことだと思っていた。しかし、今は戦争は遠いものではないと感じている」。全国被爆二世団体連絡協議会の事務局長で廿日市市の小学校教諭平野克博さん(60)の転機は、組合活動を通じて韓国・釜山在住の被爆者と出会った2004年にある。

 当時、海外在住者が被爆者健康手帳を取得する際、手続きのために来日する必要があった。援護の枠外で放置された韓国人被爆者は貧困と差別の中にいた。

 「なぜ、この人は日本で被爆しないといけなかったのか。戦争と植民地支配の当事者である日本政府の責任ではないか」。被爆者への国家補償を求める日本被団協の訴えにも通じる問題意識から、06年に二世協の事務局長に就いた。

 中高年になった被爆2世は、がんなどの疾病の不安を抱える。親が浴びた放射線が自身の健康に与える影響は、最新の研究でも判然としない。老いた母から、死産だった2人のきょうだいがいると聞いたことも脳裏をよぎった。

 「国は2世への援護措置を怠っている」として17年2月、広島、長崎地裁に慰謝料を求めて提訴した訴訟には、計52人の被爆2世が加わった。「私たちも不安を抱えて生き続ける。この不安を与えた責任を法廷で問いたい」

(2018年7月30日朝刊掲載)

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