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被爆の父 戻らぬ遺骨 広島市南区 金輪島 乏しい記録

 1945年の原爆投下直後に多数の被爆者が運ばれ、遺体が火葬されたとされる広島市南区の金輪島に、遺族が慰霊碑を建立して今年で20年になる。肉親の遺骨が戻らぬまま、島のどこかに眠ると信じて慰霊を続けてきた。老いを深める遺族は、「生きているうちに、遺骨をこの手で抱きたい」と願う。

 金輪島は広島市営桟橋(南区)から南に1キロの沖に浮かぶ、周囲約5キロほどの小さな島だ。慰霊碑は島西側の高台にある。98年に西区の田辺芳郎さん(81)の兄博介さん(2011年に86歳で死去)が中心となって建て、兄亡き後は田辺さんが守ってきた。

 73年前の8月6日、父次郎さん(当時52歳)は大けがを負って金輪島へ運ばれ、そこで亡くなったと人づてに聞いた。遺骨を捜そうにも確かな手掛かりはなく、すべもない。「碑は、父がこの島に眠る証しであり、私の心のよりどころ」と語る。ほぼ毎年、暑さが和らぐ10月に他の遺族たちとともに慰霊祭を開いてきた。

 被爆者が金輪島に運ばれたことを示す公的な文書はほとんどない。71年発行の市の広島原爆戦災誌第2巻に「500人くらい収容された」との記述にとどまる。記録の乏しさは、島の歴史と関わりがありそうだ。

 当時、島には旧陸軍船舶司令部(暁部隊)の専用船艇の開発拠点があった。軍事秘密を守るため、一般の人は島に住めなかった。さらに原爆が落ちた日は軍人の多くが爆心地での救護に駆り出されており、島での惨状を目の当たりにした人はごくわずかだったと思われる。

 ただ、生き残った被爆者や救護に当たった女子挺身(ていしん)隊員たちが、後に生々しい記憶を証言している。島に運ばれた人の多くが身元が分からないまま亡くなり、島内で火葬されたという。実際、52年には海岸の山腹に穴を掘って葬られたとみられる29人の遺骨が見つかっている。

 だが広島市は、発掘調査は考えていないという。担当者は「時間と費用がかかる作業で、実現にはハードルがある」と説明する。

 西日本豪雨で金輪島も土砂が崩れて道が埋まった。「今年の慰霊祭は開けんかもしれん」と田辺さんはつぶやく。ただでさえ年々、顔を合わせる遺族の数が減ってきた。みんな高齢になり、島を訪ねることが難しくなってきている。

 「それでも、命ある限り続けていきたい」と力を込める。「慰霊祭がなくなったら―。この島に眠る被爆者のことも忘れられてしまうから」(中川雅晴、山下美波)

(2018年8月1日朝刊掲載)

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