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連載・特集

8・6式典 都道府県遺族代表の思い 受け継ぐ「あの日」

 米国の原爆投下から73年。広島市が6日、平和記念公園(中区)で営む原爆死没者慰霊式・平和祈念式(平和記念式典)に、ことしは40都道府県から遺族代表各1人が参列する。最高齢は91歳、最年少は35歳、平均年齢は69・2歳。亡き人の「あの日」の記憶や、受け継いだ平和への願いを聞いた。

 ≪記事の読み方≫遺族代表の名前と年齢=都道府県名。亡くなった被爆者の続柄と名前、死没年月日(西暦は下2桁)、死没時の年齢、死因。遺族のひと言。敬称略。

【北海道】

佐々木 チヨ(88)
 夫博、17年7月14日、92歳、虚血性心筋梗塞

 夫は陸軍船舶特別幹部候補生隊「若潮部隊」の一員として原爆投下日の昼、訓練中の江田島から広島市に入った。遺体を焼く作業をし、悲惨な状況に最初はご飯も水ものどを通らなかったという。部隊の基地のあった小豆島(香川県)も回って慰霊をしたい。

【青森】

武藤 裕子(74)
 母久保すゑ、04年6月20日、92歳、肺炎

 母は皆実町にあった自宅に帰る途中、広島駅から電車に乗った直後に被爆した。留守番をしていた私は当時1歳9カ月。顔や手にガラスが刺さるけがをし、一緒にいた祖母は亡くなった。核兵器も原子力発電も反対。式典に参加して気持ちを新たにしたい。

【宮城】

林  俊江(64)
 父吉男、15年9月12日、89歳、前立腺がん

 陸軍の暁部隊にいた父は皆実町の兵舎で被爆。やけどした左半身はケロイドになった。東日本大震災の津波で宮城県石巻市の自宅は被災したが、証言活動は熱心に続けていた。西日本豪雨の被害にも思いを巡らせながら、被爆当時の生活の大変さを考えたい。

【秋田】

伊藤 豊子(71)
 父太田久吉、85年6月19日、68歳、骨髄膜炎

 南満州鉄道に勤務していた父は一時帰国し、観音町にあった母の実家を訪ねていた時に被爆した。大けがを負って因島の病院に搬送され、しばらく行方不明になっていたようだ。家族に全く体験を語らなかったが、秋田県被団協の証言活動は熱心だった。

初の広島訪問。被爆2世として、しっかり慰霊したい

【山形】

斎藤 亮(56)
 父三郎、17年11月24日、91歳、心不全

 陸軍の特別幹部候補生で比治山のそばにいた。損傷のひどい遺体の処理に追われ、食事もままならなかったという話を子どもの頃から、ずっと聞いて育った。初めての広島訪問。被爆2世として、世界で初めて原爆が投下された地で、しっかり慰霊したい。

【茨城】

茂木 貞夫(84)
 父嘉勝、68年12月17日、80歳、心不全

 父は刑務官で、吉島町の刑務所にいた。ガラス片が頭や腕に刺さり、晩年まで「チカチカ痛い」と言っていた。通学中だった私も住吉橋東詰め近くで被爆し、大やけどを負った。生かされた者の務めと思い、毎年、原爆慰霊碑の前で手を合わせている。

【群馬】

久保田 正男(66)
 父濱吉、17年9月15日、93歳、老衰

 大竹市の海軍潜水学校の一等機関兵で、被爆者の救護活動に従事した。担架で犠牲者を山に運び、焼いていたというが、断片的にしか被爆体験を聞いたことがない。夫婦で初めて広島を訪れる。父の写真を持って行き、当時、何を感じたのか考えてみたい。

【埼玉】

木内 恭子(82)
 母茂木寿子、90年1月20日、88歳、肺炎

 父が勤めていた吉島町の刑務所内の官舎で被爆。9歳だった私も近くの街頭でけがをした。被爆50年ごろから毎夏、広島を訪ねているが式典参列は初めて。華は何も語らなかったが、戦争のない世界を望んでいたはず。今年も平和を祈り、体験の継承を誓いたい。

【千葉】

児玉 三智子(80)
 弟国好秀典、17年12月24日、78歳、心臓停止

 弟は5歳で、高須の家の周りで虫捕りをしていた。外傷は少なかったが、高齢になって二つのがんを患うなど苦しんだ。多くは語らなかったが、核兵器廃絶の願いを家族には話していた。弟たち亡き被爆者に、核兵器禁止条約を巡る動向などを報告したい。

【東京】

木岡 紀久代(78)
 父木岡茂雄、84年6月16日、79歳、悪性リンパ腫

 父は勤めていた南観音町の旭兵器製作所で被爆。その夜、皆実町の自宅近くの山に避難していた私たち家族を捜し出し、おにぎりを届けてくれた。戦後は必死に働き、私を大学にまで行かせてくれた。元気で被爆証言にも取り組んでいますと感謝の気持ちを届ける。

廃墟の中を毎日歩いたが、姉は見つからなかった

【神奈川】

丸山 進(78)
 姉生代、45年8月6日、12歳、被爆死

 広島女学院高女1年だった姉は、建物疎開のため国泰寺周辺で被爆した。父が捜し回ったが遺体は見つからなかった。自宅も全焼し遺品もない。残るのは親戚が持っていた姉の写真1枚だけ。優しい人だった。女学院の慰霊碑も訪ね、犠牲になった若者を悼みたい。

【新潟】

山内 悦子(89)
 父林鷹三、45年8月19日、39歳、被爆死

 父は県産業奨励館内の内務省中国四国土木出張所に勤務していた。紙屋町で建物疎開中に被爆し、後頭部や背中を焼かれた。我慢強い父が畳の上で、はいつくばって苦しんでいた姿は忘れられない。私も高齢になり、「今生の納め」との思いでお参りする。

【石川】

角田 主枝(49)
 祖母小林ウメノ、01年12月8日、87歳、老衰

 祖母は吉島の自宅で被爆。そばの刑務所の壁のおかげか、やけどはなかった。旅好きでパワフル。生前は被爆者と意識せず、当時の詳しい話は没後に父から聞いた。「若い世代が平和を学ぶきっかけに」と3年前、私も継承活動を始めた。式典には長男と臨む。

【福井】

奥山 悦男(68)
 父孫右衛門、17年4月8日、90歳、大動脈解離

 水上特攻艇の乗員だった父は今の坂町で待機中、原爆を目撃して救援に向かった。元特攻隊、被爆者として生き残った二重の罪の意識から毎年、隊の慰霊祭に出席。最期の言葉は「今年は出席できないと電話してくれ」だった。非戦、平和の思いを新たにしたい。

【山梨】

清水 龍男(66)
 父要四郎、91年12月22日、67歳、心不全

 徴兵された父は、戦況の悪化で中国大陸から広島へ移り、被爆した。私が高校の時に初めて被爆体験を話してくれたが、普段明るい父が口ごもっていた。よくハーモニカで軍歌を吹いていた。どこか寂しげで弔いだったのかもしれない。父の思いを広島に届けたい。

【長野】

細田 伸子(64)
 父昭夫、16年4月13日、88歳、脳梗塞

 父は進学で8月4日に広島へ行ったばかりだった。爆心地から約2㌔の建物で被爆し、背中に傷痕があった。爆風でガラス片が刺さったようだ。ずっと語らなかった父が約10年前、中学校での被爆証言で「戦争しないで」と呼び掛けていたのが心に残る。

【岐阜】

西脇 節夫(71)
 父政夫、17年5月31日、94歳、心不全

 鉄工所で働いていた父は、原爆投下の翌日に遺体の収容作業で広島市内に入った。悲惨極まりない体験だったのだろう。あまり語らなかった。10年ほど前に原爆資料館を訪ねた時も多くを話さなかった。二度と戦争してはいけないとの思いを胸に参列する。

【静岡】

後迫 英二(84)
 姉幸子、45年8月6日、16歳、被爆死

 姉は水主町にあった県病院の看護講習生だった。あの日は建物疎開の救護活動に当たっていたらしい。翌朝、姉を捜しに両親と熊野町から向かった。火がくすぶる廃虚の中を毎日歩いたが、姉は見つからなかった。その時見た悲惨な光景を思い出すと苦しくなる。

【愛知】

丹波 真理(68)
 父道下拓広、98年10月22日、75歳、誤嚥性肺炎

 徴兵され広島工兵隊にいた父は、爆心地から2㌔の宿舎で被爆。両手と額をやけどしたが、古里の三次市で隣家の医師に診てもらい回復した。爆心地近くで行方不明のままの伯父を思い、父は灯籠を流さなかった。原爆資料館で伯父の手掛かりがないか探したい。

【三重】

小野 俊子(72)
 母水谷朝子、17年12月19日、92歳、誤嚥

 母は実家のある呉が空襲を受け、嫁ぎ先の大竹から見舞いに行く途中、広島駅で被爆。被爆したことを秘密にしていた。私も母の被爆を知られたくなくて、式典参列をためらってきた。知人の被爆者から「(被爆を)知っとらなあかん」と背中を押されて決断した。

【滋賀】

中野 正(81)
 兄清、13年12月14日、81歳、前立腺がん

 あの日、沼田地区の自宅に両親と兄がいた。私も近所にいた。パッと広がった光。家の屋根が壊れて窓ガラスも割れた。やがて黒い雨。大勢の人が沼田に逃れてきたのを覚えている。広島を訪れるたびに平和への思いを強くする。核兵器をなくしてほしい。

【京都】

高橋 和久(56)
 父久雄、17年6月22日、86歳、誤嚥性肺炎

 三原市の鉄道学校にいた父は投下翌日、救援に広島市へ入った。深く語らなかったが80歳ごろ、ステンドグラスで被爆当時を描いた畳1枚分もある作品を作った。亡くなる半月前、「水を求める声を無視した」と泣いて悔いた。父に代わり広島で手を合わせたい。

【大阪】

向井 正啓(75)
 父忠雄、84年8月13日、83歳、脳梗塞

 父は古里の能美島で中学校教諭を務めていた。投下翌日から翠町の母の実家に母と私を預け、毎日、行方不明の親類を捜しに出た。叔父の話では、臭いがひどく、竹ざおで遺体を起こして顔を確認したという。私も入市被爆者。同じ境遇の人と共に平和を願いたい。

【兵庫】

手島 俊治(74)
 父俊之、02年1月14日、87歳、老衰

 傷病兵の父は、神戸の工場で工員の竹やり訓練を指導していた。投下翌日、母と私がいた己斐に駆け付け親類中を助けて回った。戦後は伯父の飲料会社を助けて仲買を始め、原爆のせいか病弱な私の治療費を稼いだ。父への感謝と弔いの思いを新たに参列したい。

【奈良】

大坂 なお子(67)
 母山崎麻江、17年3月26日、95歳、老衰

 看護師だった母は大野陸軍病院(現廿日市市)に招集され、被爆者の救護に当たった。私が長男を出産した数年後、「孫が健康で産まれてほっとした」と打ち明けたが、75歳で被爆者健康手帳を取得するまで何も語らなかった。式典後、病院跡地を訪ねたい。

【和歌山】

黒瀬 由美子(57)
 母三宅ユキ子、13年7月31日、82歳、死因不明

 14歳だった母は広島駅で被爆し、建物の下敷きになった。後遺症か、腰骨や背骨が悪く、入退院を繰り返した。自分の父親と妹を原爆で亡くした母は何度も体験を語っていた。私も伝える責務を感じている。勤務先の小学校の児童が折った千羽鶴を手に式典に臨む。

【鳥取】

萩原 千津子(66)
 母米重フジヨ、18年1月8日、92歳、脳幹梗塞

 母は現在の安芸高田市八千代町から、宇品に住んでいた姉を捜して広島に入り、看病した。広島で見た無残な光景が忘れられなかったようだ。母の兄が中国で戦死したこともあり、「戦争はいけん」とよく言っていた。母の平和への願いを胸に参列したい。

【島根】

祝部 ツナミ(72)
 父中上静馬、94年6月18日、85歳、膵臓がん

 父は今の庄原市東城町の警防団分団長で、救護のため広島市へ入った。「言葉では表現できない」と体験をほとんど語らなかった。聞いたのは、まだ息があるうちに会えた父の弟のことと「阿鼻叫喚」という言葉だけ。被爆2世として核兵器廃絶を祈る。

【岡山】

野田 裕子(59)
 父田中毅、17年9月24日、89歳、心不全

 広島高等師範学校1年だった父は学徒動員先の東洋工業で被爆。捜し回った祖父と再会した時、涙をこらえきれず抱きついた。教員になり、教え子に自らの体験記を読ませたようだが、私たち子どもには語らなかった。亡くなって初めての夏。父に感謝を告げたい。

核兵器禁止条約に賛成せぬ日本政府。憤りを感じる

【広島】

矢上 紀子(60)
 父敷本実夫、85年4月1日、59歳、膠原病

 国鉄の保線職員だった父は原爆投下の日の午後、復旧作業のため松原町へ入り被爆した。亡くなる前、当時を「苦しむ人より息のない人の方が幸せに感じた」と振り返り、自分も胸が詰まった。なぜ日本政府は核兵器禁止条約に賛成しないのか、憤りを感じる。

【山口】

木下 俊夫(86)
 父清一、45年8月6日、50歳、被爆死

 私の長兄、長姉と町内会の建物疎開作業に行った父は住吉橋のたもとで被爆。遺骨も分からない。式典には毎年参列し、原爆慰霊碑で手を合わせると、当時を思い出し、涙が出る。地元の小学校で自らの被爆体験を話している。大人になっても心に残ってほしい。

【香川】

石川 博之(35)
 祖父田尾秀太郎、09年10月31日、85歳、肺炎

 祖父が被爆したことは20歳すぎまで知らず、母や伯父に聞いた。千田町の広島工業専門学校(現広島大工学部)で被爆。教室の中央にいて助かり、窓際の人は犠牲になったそうだ。本人に話を聞いてみたかった。同じ日に被爆地に立ち、当時に思いをはせたい。

【愛媛】

梶野 平太(46)
 祖母清子、18年2月12日、96歳、老衰

 祖母は爆心地から1㌔の舟入町の自宅で被爆。伯母が家の下敷きになり、助けたが亡くなった。つらかったと思う。父は祖母の胎内で被爆。父が亡くなり、10歳の時、祖父に連れられ式典に参列した。2回目の今回、祖母に長生きしてくれてありがとうと伝える。

【高知】

鈴木 尊成(62)
 父良哉、13年5月3日、88歳、老衰

 父は原爆投下時、軍の通信業務で広島市内にいた。室内にいてけがはなかったが、遺体の処理に携わり、むごい姿をたくさん目にしたという。語る機会は少なかったが、式典のニュースなどを見ては涙を流していた。自分も平和の実現に向けて考えを深めたい。

【福岡】

武田 芳枝(65)
 父森田美芳、08年11月6日、80歳、脳梗塞

 徴兵で宮島にいた父は原爆投下直後の広島市へ救援に向かい、入市被爆した。家族に体験を語らず、制作に協力した証言集で経緯を知った。晩年は福岡県原爆被害者相談所長を務め、被爆者支援に積極的だった。私たちに明かせない思いを抱えていたのだろう。

【熊本】

杉本 珠美(59)
 母西田シマエ、17年9月24日、87歳、敗血症

 学徒動員の看護師だった母は当時の広島赤十字病院で被爆した。脚を骨折したが治療を受けられず、3カ月間寝たきりだったと聞いた。恐ろしかっただろう。戦後は被爆者の集まりを避け、広島を訪れることもなかった。母の思いが軽くなるよう願い、式典に臨む。

核と人間は共生できない。亡き弟の分も伝えたい

【大分】

吉本 桂三(82)
 弟盛重、17年5月15日、77歳、がん

 弟は当時の江波町の自宅で被爆した。倒壊した家の中から近所の人に助け出された後、再会した。傷だらけの姿だった。周りの大人も悲壮な顔。夢ならばいいのにと思ったが、これが私たちの現実だった。核と人間は共生できない。弟の分まで伝えていきたい。

【宮崎】

池田 慶子(65)
 母松本園子、16年7月16日、90歳、大腸がん

 広島赤十字病院の看護師だった母は勤務中に被爆。けがを負ったのに、体が動くからと生き残った人の看病に当たったという。使命感のある女性だった。ただ、その時の体験を語ろうとはしなかった。式典には初めて参加する。母の分も含めて平和を祈りたい。

【鹿児島】

春田 真未子(57)
 祖父段重男、98年1月18日、84歳、膵臓がん

 祖父と祖母、母たち4人姉妹は今の西区南観音にあった三菱造船社宅で被爆した。終戦の前に鹿児島へ戻った後、祖父は娘への偏見を恐れてか、被爆体験は話さなかった。代わりに平和な情景を詠んだ俳句を多く残した。私も俳句で平和への思いをつなげたい。

【沖縄】

太田 康子(91)
 夫守福、13年8月30日、91歳、老衰

 飛行機の部品工場に勤めていた夫は尾長町で被爆。5人の子どもを育てるのに必死で、被爆当時の話をする余裕はなかった。当日は沖縄で一緒に暮らす長男の孫と出席する。年齢を考えると今年が最後になる。式典に出席する人は末永く祈り続けてほしい。

(2018年8月5日朝刊掲載)

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