×

ニュース

当時10代 「今は語れる」 被爆者救護の最前線 広島・金輪島

 1945年の原爆投下直後、大勢の被爆者が運ばれた金輪島(広島市南区)。救護に当たったのは島にあった旧日本軍の施設で働く10代の若者だった。爆心地への救援に向かった軍人に代わり、女子挺身(ていしん)隊員や軍属の少年が救護所の最前線に立った。逃げようとしても振り払っても、迫ってくるあの日の記憶―。老いを重ね、今は静かに振り返ることができる。

 南区宇品西の植園澄子さん(92)には、毎日のように通う場所がある。バスに揺られ、元宇品町のグランドプリンスホテル広島へ行く。喫茶店でお茶を飲みながら、1時間ほど海を眺める。金輪島がくっきりと見える。

 当時、島では旧陸軍船舶司令部の専用舟艇が造られていた。女子挺身隊員だった植園さんは当時19歳。舟艇の部品を作る仕事などをしていた。「大けがをした人が次から次へと運ばれてきて…。兵舎がたちまちいっぱいになってね」。そう語ると植園さんの目がみるみる真っ赤になった。

 薬はすぐに尽き、傷口に水を付けることしかできなかった。翌日には大勢の人が亡くなり防空壕や兵舎前の広場で遺体が焼かれた。そんな日が1週間続いた。

 母から「あなたは救護で放射能を浴びているから結婚できない」「健康な子どもは生まれない」と言われた。だが23歳、お見合いで結婚した。「相手が鹿児島の人でね、原爆のことを聞いてこなかったから結婚できたの」。2人の息子に恵まれた。それでも島であったことは家族にも話せないまま、戦後を生きてきた。

 「ずっと遠ざけてきたのにね」。約20年前、初めて同ホテルを訪れたとき、島の姿が目に飛び込んできた。記憶がよみがえる。19歳の自分を抱きしめたくなった。生きることに必死で、お国のためにと軍で働くことが誇らしかった。そんな青春時代だった。繰り返してはならない。目を背けてはいけない―。

 昨年8月、原爆資料館の証言ビデオに初めて出演した。雨が降る日もホテルに通う。「ここに来るのは、私なりの慰霊なんよ」。時間を忘れて島を眺める。いつもじわりと涙が出る。

 当時15歳で鉄船見習工として軍で勤務していた三次市の田口健三さん(88)も、島で救護をした一人だ。広島市中心部の様子が分からない中、次々と運ばれてくる被爆者を軍の施設や、軒下の土の上にむしろを敷いて寝かせた。「『新型爆弾が落ちた』という情報しかなく、何が何だか分からなかった」

 遺体に群がるハエを、大きなうちわであおいだ。3日目には生き残っている人の傷口にもうじがわいた。遺体は山で火葬された。

 戦後、差別されることを恐れ、家族にも金輪島での体験を明かさなかった。80歳を過ぎてから、このままでええんかと思うようになった。「金輪島であったことを話せる人は、もうえっとおらんのに」

 今、地元の中学生たちに語って聞かせる。自分が同じくらいの年のころに、あの島で経験したことを。(中川雅晴、山下美波)

(2018年8月4日朝刊掲載)

年別アーカイブ