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原爆死の母 娘への手紙 疎開先庄原へ12通つづる 公文書館に寄贈

 原爆死した母親が被爆直前まで疎開先の娘に送った手紙が残っていた。今の庄原市に学童疎開し、家族で唯一、被爆を免れた鈴木尚子さん(83)=神奈川県逗子市=が受け取った12通。姉の渡部定子さん(85)=広島市西区=を通じて広島市公文書館(中区)に寄贈された。市が今夏発行した「被爆70年史」の付属DVDに手紙を巡る渡部さんの証言が収められた。母の手紙は、原爆に引き裂かれた家族の記録でもある。(明知隼二)

 「三日に廣島を出てから今日は七日なのに なんだかもっともっと見ない様(よう)な気がします」(1945年4月7日)

 「懐かしい字…」。公文書館で母の手紙を手にした渡部さんの口元が、ふっとゆるんだ。しかし、読み返すうち笑みは陰った。

 渡部さんは当時、5人家族。父松田三郎さん=当時(42)、母邦子さん=同(33)、妹尚子さん、弟英司さん=同(3)=と爆心地から約1キロの大手町(現中区)に暮らした。大手町国民学校(廃校)4年だった尚子さんは45年4月3日に疎開。母は、その4日後から被爆3日前の8月3日まで手紙を書き続けた。

 「英司は毎日あせをたらしながら畠(はたけ)の中でテフテフ(チョウチョウ)を追(い)廻(まわ)してます」「定子ちゃんは女学校へ行ってます。お父さんも元気です」。疎開先を訪ねた後は「やっと尚ちゃんの所に行けてお母さんは本當(とう)にうれしかった」。

 「毎日敵の飛行機が頭の上をとんでます」。戦況が悪化する中、最後の手紙まで「(モンペが)出来たら又(また)もって行きます」と、一人離れて暮らす次女を案じた。

 8月6日。比治山高等女学校(現比治山女子中高)1年だった渡部さんは、建物疎開作業の前にいったん集合した霞町(現南区)の校内で被爆した。けがはなく、学校の防空壕(ごう)で朝を待ち帰宅。倒壊した自宅から救い出されたという母と再会した。

 被爆直後、一帯は猛火に包まれた。母娘は焼け跡から英司さんらしい小さな骨を見つけた。救護所を訪ね歩いたが、三郎さんは見つからなかった。似島(現南区)から大量の遺骨が見つかった71年、島で亡くなっていたことが分かった。

 母は被爆2週間後から脱毛や吐血に苦しみ、亡くなった。残された渡部さんは千葉県の親戚に、疎開先の尚子さんは神奈川県の親戚に引き取られ、離れ離れの暮らしとなった。

 手紙は、体調が芳しくない尚子さんの家族が渡部さんに寄贈を託し、2年前、渡部さんが公文書館に届けた。「手紙を通じて人の営みが原爆に奪われたことを知ってほしい」。渡部さんは古びた便箋を手に願った。

(2018年8月5日朝刊掲載)

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