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故松重美人さん撮影 写真の「私」 記憶たどる 

竹内さん「悲惨さに思いはせて」

 原爆投下当日、市民の惨状を捉えた御幸橋西詰め(現広島市中区)の写真。そこに写る被爆者竹内(旧姓松林)節子さん(86)=中区=が6日、体験を語った。「私のタブー」と、言葉にするのを避けてきたが、市が今夏発行した「被爆70年史」に証言が収められたのを機に、その場所で73年前の記憶をたどった。

 「とにかく人の流れに付いて逃げるばかりで…」。欄干のそばに立ち、言葉を選ぶように、静かに語り始めた。1945年8月6日、中国新聞社カメラマンだった故松重美人さんが午前11時すぎに撮影したカット。セーラー服の女性の横に、はだしで逃れてきたらしい白っぽい服装の竹内さんの後ろ姿が写る。

 当時は広島女子商業学校(現広島翔洋高)2年。爆心地から南東約1・6キロ、動員先の千田町の広島貯金支局で被爆した。作業を始めようとしたら突然、ドーンという大きな音とともに周囲は真っ暗になり、粉々になったガラスが吹き飛んできたのを覚えている。

 けがは幸い軽かった。表に出ると、市役所の方向から「服を着ているのか分からない」ほどのやけどを負った人たちが歩いてきた。市中心部は既に炎に。同級生数人と、自宅のある舟入とは反対の宇品方面に逃れ、橋近くの臨時救護所にたどり着いた。

 セーラー服の後ろ姿は、一緒に逃げた同級生の河内光子さん(1月に86歳で死去)。河内さんは73年に名乗り出たが、竹内さんは「話しても分かってはもらえない」と口を閉ざし続けた。それでも「ここまで生きてきた以上、固辞はできない」と取材に応じた。

 眼球が飛び出たまま歩く人、遺体に湧く「白いシャツが黒くなる」ほどのハエ―。脳裏に刻まれた光景を言葉に紡ぎながら、何度も、何度も、首を振った。「写真に撮られなかった、より大きな悲惨さに思いをはせてほしい」。写真の少女は、73年を迎えたヒロシマの継承を、そう問うた。(明知隼二)

(2018年8月7日朝刊掲載)

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