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ヒロシマ8・6 各地で慰霊祭

生徒の顔浮かぶ/人道の対極/亡き夫のためにも参列

寂しさ拭い切れない/級友の大半亡くなった/不戦願う

  ◆原爆死没者慰霊行事(平和記念公園)
 広島戦災供養会が原爆供養塔前で営み、遺族たち約400人が集まった。遺族代表の世良幸三さん(65)=西区=の祖母は横川地区で被爆し、腕に大やけどを負った。母も入市被爆した。2人は生前、当時の話をほとんどしなかったという。「2世でも原爆の話を直接聞いたことがない人は多い。被爆体験を風化させないためにも、その言葉に耳を傾けたい」

  ♦広島二中原爆死没者慰霊祭(平和記念公園)
 旧制広島二中(現観音高)の慰霊碑に向かい、観音高の生徒会長を務める2年吉原怜央さん(16)が「被爆者の今も続く苦しみを想像し、平和へのバトンを次世代につなぎたい」と決意を述べた。同高の在校生や遺族約200人が見守った。広島二中は当時、建物疎開の作業をしていた1年生をはじめ約350人を失った。

  ♦県職員原爆犠牲者追悼(中区加古町)
 県職員や遺族ら約220人が、旧県庁跡の慰霊碑で犠牲者を悼んだ。安芸高田市の末田敬子さん(75)は、県職員だった父山崎加寿人さん=当時(35)=をしのび、妹の山崎真里子さん(73)と毎年訪れる。「私も妹も父を覚えていない。祖父母から政治家を志し勤勉で活動的な人だったと聞き、誇らしい」と父の姿を静かに想像した。

  ◆広島女子高等師範学校、付属山中高等女学校、県立第二高等女学校合同慰霊祭(中区国泰寺町)
 荒神堂境内の慰霊碑前に遺族や、山中高女の流れをくむ広大付属福山高(福山市)の生徒ら計約80人が集まった。当時山中高女で国語の教師をしていた平賀栄枝さん(95)=福山市=は「雑魚場町に学徒動員されていた生徒の多くを亡くした。今でも彼女たちの顔が浮かぶ」と亡き生徒に手を合わせた。

  ♦広島赤十字・原爆病院原爆殉職職員ならびに戦没職員慰霊式(中区千田町)
 慰霊碑は病院近くの日本赤十字社県支部内に設けたメモリアルパークにある。職員や元職員たち約150人は8時15分に黙とう。その後、慰霊碑に花や折り鶴をささげた。古川善也院長(63)は「人道の対極にあるのが原爆だ」と指摘。「二度と同じ過ちを繰り返さないためにも、被爆証言を後世に引き継ぐ」と慰霊碑を見つめた。

  ◆広島郵便局原爆殉職者慰霊祭(南区比治山町)
 遺族や職員たち約80人が慰霊碑のある多聞院に集った。原爆投下時刻に鐘が突かれ、全員で黙とう。288人の犠牲者を悼んだ。平石允子さん(81)=安芸区=は、同郵便局職員だった祖父と父を失った。「心の傷は癒えないが、これまで元気でいられたのは2人が見守ってくれていたからだろう」としのんだ。

  ◆電気通信関係原爆死没者慰霊式(中区基町)
 遺族やNTT西日本グループの社員たち約90人が参列した。南区の荒木ミツエさん(95)の義理の弟、礼三さん=当時(18)=は、夜勤後に帰宅する途中で被爆。遺体は見つからなかった。荒木さんは「4年前に亡くなった夫は『今にもただいま、と帰ってきそう』と言っていた。夫のためにも参列を続けたい」と思いを強くしていた。

  ◆国土交通省(旧内務省)原爆殉職者慰霊式(平和記念公園)
 原爆ドームそばの慰霊碑前に、遺族や中国地方整備局の職員たち約90人が集まった。広島市安佐北区の小売業吉村靖子さん(75)は、太田川の管理業務に携わっていた祖父の三吉恵作さん=当時(61)=を失った。「原爆に大切な家族を奪われた。73年たっても寂しさは拭い切れない。平和な世界を築いてほしい」と、涙ぐみながら語った。

  ♦広島市立広島商業高原爆死没者慰霊祭(平和記念公園)
 約100人が本川沿いの慰霊碑前に集った。市立広島商業高の近藤風樺さん(17)と姉妹校で長崎市にある市立長崎商業高の山本咲希さん(17)=いずれも3年=が生徒を代表して宣言。「被爆地の体験を互いに学び合い、発信していく」と継承を誓った。9日は、市立広島商業高の生徒たちが長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に参加する。

  ◆広島高等師範学校付属中の原爆死没者・戦没者慰霊追悼の集い(南区翠)
 流れをくむ広島大付属中・高の講堂で、在校生や当時の生徒たち約180人が犠牲者を悼んだ。出席した府中町の赤木英壮(えいそう)さん(85)は当時1年生。現東広島市で勤労奉仕をしていて難を逃れたが、同級生10人を亡くした。「戦争ほど愚かなものはない」と赤木さん。後輩に平和の尊さを理解してほしいと願った。

  ◆県動員学徒等犠牲者の会原爆死没者追悼式(平和記念公園)
 遺族たち約300人が、原爆ドーム近くの慰霊塔の前に集まった。建物疎開作業をしていた姉を中区の平和大橋そばで亡くした、会社会長大方了介さん(82)=南区=は、毎年欠かさず式典に参加。「戦争のようなむごいことを人間はするべきではない」と強く語った。学徒134人が犠牲となった県立広島商業学校の後身、広島商業高の3年津野優さん(18)は「悲劇を伝え続ける」と誓いを新たにした。

  ◆嵐の中の母子像供養式(中区中島町)
 広島市地域女性団体連絡協議会の会員約80人が母子像の前で黙とうをささげた。続いて「原爆を許すまじ」を斉唱した。月村佳子会長(74)=西区=は「戦争が二度と繰り返されないよう、母子像の母親のように女性のパワーで世界に平和を発信していきたい。それが広島で生まれ育った私たちの使命です」と力を込めた。

  ♦県立広島第一高等女学校原爆犠牲者追悼式(中区小町)
 卒業生や遺族、流れをくむ皆実高の生徒約300人が、慰霊碑に手を合わせた。中区の岩田兼子さん(80)は、姉の森永和子さん(82)と参加。当時1年だった長姉の晴美さんを亡くした。岩田さんは「疎開先の津山市に私を送ってくれた。優しい姉だった。勉強好きだったから、もっと学びたかっただろうに」と惜しんだ。

  ♦広島市女職員生徒原爆死没者慰霊式(中区中島町)
 広島市立第一高等女学校の卒業生や遺族たち約400人が、平和大橋西詰め近くの慰霊碑に花を手向けた。同校の流れをくむ舟入高の吹奏楽部の伴奏で、参加者が両校の校歌を青空に響かせた。舟入高の日浦毅校長(58)は「核兵器は絶対悪。被爆体験を後世に伝えるのは、われわれの世代の義務だ」と真剣なまなざしで呼び掛けた。

  ◆旧制広島市立中学校原爆死没職員生徒慰霊祭(中区西白島町)
 昨年10月、慰霊碑を中区小網町から、同中の流れをくむ基町高に移設した。その後、初の慰霊祭には、遺族や同高の生徒たち約450人が集まった。当時1年生だった弟を亡くし、定年退職後、30年近く慰霊祭に参加している中区の児玉保さん(89)は「慰霊祭のたびに、弟が生きていたらどんな話ができただろうと思う。今後も参加し続ける」。

  ◆広島大原爆死没者追悼式(中区東千田町)
 遺族と大学関係者約140人が、追悼碑の前で黙とうした。安佐南区の村越幸男さん(63)は今年初めて参列し、遺族代表を務めた。昨年93歳で亡くなった父幸三さんは、広島工業専門学校(現広島大工学部)の在学中に入市被爆。「父から聞いた当時のことを、子や孫にも語り継いでいきたい」と決意を新たにしていた。

  ◆県被団協(坪井直理事長)原爆死没者追悼慰霊式典(中区基町)
 約140人が花をささげた。欠席した坪井理事長は「核兵器禁止条約が国連で採択された。核兵器廃絶運動に一層力を注ごう」と追悼の言葉を寄せた。参列した庄原市の竹下敦さん(87)は当時、旧制広島市立中2年。学徒動員先に向かう道中、広島駅で被爆して顔にやけどを負った。「級友の大半が亡くなった。戦争の痛みを伝えていく」と誓った。

  ◆原爆犠牲新聞労働者「不戦の碑」碑前祭(中区加古町)
 新聞社と通信社の社員を悼む碑に、遺族や労組関係者たち約100人が集まった。東区の会社員神崎正臣さん(61)は中国新聞社の社員だった伯母の冨美子さんを追悼するため、初めて参列。毎年出席していた父の正男さんは、昨年末に87歳で亡くなった。「父の思いを引き継ぎ、不戦を願い続ける」と力を込めた。

  ◆国鉄原爆死没者慰霊式(中区東白島町)
 遺族やJR西日本社員たち約120人が参列した。慰霊碑に黙とうをささげ、「原爆を許すまじ」を歌った。東広島市の上田茂基さん(92)は当時国鉄職員だった弟の信彦さん=当時(15)=を亡くした。上田さんは「急に訃報が届いた日のことは忘れられない。今でも寂しい」と無念さをにじませた。

(2018年8月7日朝刊掲載)

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