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思いは埋もれぬ 被災の慰霊碑に父の名 小屋浦で73年ぶり「再会」 安佐北区の阿部さん

弔ってくれた人たちに感謝

 原爆投下から73年を迎えた6日、広島市内は犠牲者を悼み、平和を願う祈りに包まれた。あの日の記憶をたどり、次代に託す被爆者たち、継承を誓う若者たち―。西日本豪雨の被災地でも慰霊の営みが行われた。

 災害で、土砂に埋もれた坂町小屋浦地区の原爆慰霊碑。懸命な撤去作業によって、慰霊の日に間に合った。住民たち20人が黙とうする中に、初めて訪れる女性がいた。広島市安佐北区の阿部愛子さん(88)。中国新聞の報道で、碑に父の名が刻まれていることを知った。

 「大事にしてもらったね…」。阿部さんは、父山根作市さん=当時(42)=の名を確かめ、声を震わせた。碑には「作一」とあるが「間違いない」。碑の被災を報じた2日の新聞で、写真の碑に父の名を見つけた。

 作市さんはあの日、爆心地から約800メートルの竹屋町(現中区)の自宅で被爆。阿部さんは可部高等女学校(現可部高)3年の寄宿生で、父を捜して約1週間、市内外を歩いた。

 父は小屋浦海水浴場の救護所に運ばれていた。寝たきりの父は「いつか楽しいことがある」と気丈だった。だが次第に体が細っていく。8月31日の朝、大量に吐血。受け止めた手拭いの重みが怖くて、思わずすぐ横の海に捨てた。その日、父は息を引き取った。

 小屋浦の救護所で亡くなった約150人は、住民たちの手で埋葬された。父もその一人だった。1987年、地域によって碑が建てられたことを阿部さんは知らなかった。

 この日、碑を世話してきた地元の被爆者西谷敏樹さん(72)や、豪雨後に土砂を撤去した海田町の造園業田川房雄さん(77)も祈りをささげた。阿部さんは「原爆は許せないが、父を弔ってくれた人たちにはお礼の言葉もない」と頭を下げた。(明知隼二)

(2018年8月7日朝刊掲載)

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