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連載・特集

広島×長崎 被爆地 Jクラブ 祈りの一戦 ピースマッチ 11日エディスタ

 スポーツを楽しめる平和な社会の尊さを、被爆地に本拠地を置くプロサッカーチームが発信する。J1のサンフレッチェ広島とV・ファーレン長崎が11日午後7時から、エディオンスタジアム広島(広島市安佐南区)で対戦する。米国による原爆投下から73年。「ピースマッチ」と名付けたゲームに、両クラブのトップ、監督、選手たちは核兵器廃絶と恒久平和への祈りを込めて臨む。(川手寿志、矢野匡洋)

広島

強く生きて地域に貢献 久保允誉会長(68)

  ―広島、長崎の対戦をピースマッチとして広島で初めて開きます。意義を教えてください。
 私は被爆2世。比治山(広島市南区)のABCC(原爆傷害調査委員会、現放射線影響研究所)で検査も受けた。核兵器廃絶を強く言える一人だ。被爆地にあるクラブの会長としてピースマッチをできることが一つの平和の形でもある。被爆地に本拠地を置く両クラブが平和を祈念し、鎮魂の思いを胸に試合に臨む。そういう姿勢が皆さんに感動を与え、地域を元気にしていく。

  ―家族から被爆体験を聞いていますか。
 両親と祖父母は被爆した。幸い命を落とすことはなかった。自宅は紙屋町(同市中区)だったが、5日は舟入(同区)に泊まっていた。家の外でまき割りをしていた母は運よく大きなカシの木の南側にいて爆風をあまり受けずに助かった。家で食事をしていた父は床柱が脚に落ちて動けなかった。火の手がすぐそばまで迫っていたが、母と祖父母がぎりぎりで助け出した。

  ―体験談から心に残っていることはありますか。
 母から地獄のようだと聞いた。けがした父をリヤカーで宇品(同市南区)の病院まで運んだ。周りでは死体が燃え、やけどをした人が何とも言えない姿で歩いている。本当に悲惨だったと。「一瞬で命を失った多くの人の犠牲があって今の平和がある。だからこそ強く生きて地域のために頑張らないといけませんよ」と教わった。

  ―原爆の日はどう過ごしていますか。
 毎年8月5日の夜に平和記念公園を歩いている。原爆ドームのそばにある当時の地図を見る。子どもの頃、そこでけんか駒をして遊んでいた。紙屋町の自宅では刀剣屋を営んでいたので原爆で従業員も身内も亡くなった。何とも言えない気持ちになり、急に寂しくなる。

  ―クラブとして今後はどう平和と向き合っていきますか。
 スタジアムの名称を、ピーススタジアムにすることを考えてもいいと思う。平和を願い、発信できる。広島に本拠地を置くクラブとして意義がある。広島を訪れ、原爆ドームや原爆資料館を見てもらい、核兵器をなくさないといけないと思ってもらえる場を広げていきたい。

くぼ・まさたか
 1950年2月18日生まれ。広島市中区出身。早稲田大卒業後、78年に家電量販の第一産業(現エディオン)に入社。ダイイチ社長、デオデオ社長を歴任し、98年6月にJ1広島の社長に就任。2007年12月に会長に就いた。エディオンの会長兼社長も務める。

スポーツ 復興の象徴 城福浩監督(57)

 2月に広島市中区の原爆資料館を初めて訪れて受けた衝撃が忘れられない。人々の営みがあった町並みが一瞬で焦土と化す映像、全身にやけどを負った痛ましい写真、焼け焦げた遺品…。「心に重いものがずしんと響いた。軽い気持ちで入ったことが恥ずかしくなった」

 徳島市出身。初めて生活する広島で、漠然としていた平和への思いは明確になった。「正直、子どもの頃、8月6日は特に意識しなかった。核兵器は使ってはいけないものだと理屈では分かっていたが、いかに悲劇的なことか思いを強くした」という。

 「平和であることをしっかり認識しないといけない」と考える。年代別の日本代表監督や他クラブのスタッフとして中東やアフリカに行き、銃を突き付けられた経験がある。「平和ではない国は今もたくさんある。世界の情勢や広島で起こった過去に強い関心を持ち続けないと、平和である幸せを実感できなくなる」と危惧する。

 資料館の年表に記されたカープ誕生に力が湧き出る。「広島には復興のシンボルにスポーツがある。ワールドワイドなサッカーを通じて世界に発信するまたとないチャンス」。恒久平和への思いをピッチから届ける。

長崎出身の広島MF 柴崎晃誠選手(33)

まずは知ることが大切

 「怖い」というのが長崎で受けた平和学習の印象だった。国見町(現雲仙市)出身。小学生時代、8月9日は全校集会があり原爆投下の映像を見た。「こんなことがあったのか」と信じられない気持ち。子ども心に刺激が強かった。

 ただ、それが大事なことだとプロになって分かった。長崎の国見高から国士舘大、J2東京Vと進んだけれど、関東では平和学習をやらないという。だから、チームメートから「いつなの?」と聞かれることが多かった。みんな知らなかった。

 戦争や原爆は僕らが味わったことのない苦しみで、伝えるのは難しい。ただ、子どもが大きくなったら、原爆資料館に連れて行きたい。幼い頃にすり込まれたことは忘れない。まず知ることが、僕らにできることと思う。

長崎

言葉よりも行動で示す 高田明社長(69)

  ―4月にホーム長崎であった広島戦を「平和祈念マッチ」として臨みました。
 長崎が初めてJ1に昇格して実現した。広島と一緒になって平和を発信する気持ちを、サッカーを通して伝えたかった。試合前、ピッチで広島の紫、長崎のオレンジ、平和を象徴する白と3色の風船を来場者800人と飛ばした。子どもたちにも参加して実感してもらいたかった。

  ―クラブ名のVにはオランダ語で平和(VREDE)の意味が込められています。
 長崎は被爆の事実を伝えることができるクラブ。いくらバルセロナ(スペイン)などの世界のビッグクラブが言っても、われわれの語りの方が絶対に世界中へ伝わる。長崎、広島でできることを語り合ってサッカーを通して世界に発信していく使命がある。

  ―どのように発信していきますか。
 8月9日の長崎原爆の日の前後の試合で選手が着る平和祈念ユニホームは今年で4年目になる。言葉で言うよりも、自分たちが着て平和を背負っていると行動で示すことで力は増す。それだけ強い思いを持っているんだと。

  ―ビジネスの経験が生きることはありますか。
 商品の魅力を伝えないといけない。伝えたつもりでは何も結果を出せない。相手が理解して初めて伝えたことになる。価値がものすごく大きくなるし一番意義がある。平和活動も同じ。だから平和祈念ユニホームを着て1日で地元のテレビやラジオの放送局を5局くらい回ることもある。周りからパフォーマンスだと非難されても信じる道をやり続けることが大事。

  ―選手たちにはどういうプレーをしてほしいですか。
 今年1月に選手、スタッフ約70人全員で初めて平和研修をした。長崎市の平和公園と原爆資料館を見学した。平和へ意識があっても実際に見てみないと分からないことがいっぱいある。体感、実感しないと行動は変わってこない。「愛と平和と一生懸命」という言葉を伝えている。愛があって人は初めて平和をもたらせる。一生懸命やる中で感動が生まれて、結果として勝ち負けがあるんですよ。

たかた・あきら
 1948年11月3日生まれ。長崎県平戸市出身。通信販売大手ジャパネットたかた(佐世保市)創業者。大阪経済大卒業後、父親の写真店に入り86年独立。テレビショッピングの甲高い声で人気を博した。2015年に社長を退任。17年4月に当時J2の長崎の社長に就任。

伝える使命感が活力 高木琢也監督(50)

 広島で一時代を築いたエースストライカーは、古里である長崎の指揮官として強い覚悟を持つ。「一つの出来事で結ばれている街。広島と長崎で起こった歴史を理解して臨むことでピースマッチの重みが出る」。悲惨な過去を直視し、平和を継承する大切さを訴える。

 原爆が投下された長崎市とは海を挟んで対岸の南島原市で育った。その恐怖は祖母から聞いた。「海の向こうにきのこ雲が見えたと。リアリティーがあった」。小学校で受けた平和学習も脳裏に焼き付いている。

 前身のマツダも含めて7年間在籍した広島時代は、街中を歩くと被爆樹木や被爆建物など、痕跡が自然と目に入った。「長崎と同じような焼け跡がある。広島に住んでいる以上、何が起こったか学ばないといけない」。妻と子ども2人を連れて原爆資料館や原爆ドームを訪れた。

 長崎を率いて6年目。クラブ初挑戦のJ1で古巣とのピースマッチに臨む。「続けないと絶対に広がらない。広島と力を合わせて発信していくことが大切。僕らは新参者でこれから先ずっとJ1に居続けるための一つのモチベーションになる」。平和の尊さを伝える使命感を活力とする。

広島出身の長崎GK 増田卓也選手(29)

全力の姿勢 見せ続ける

 広島市安佐北区で育った。小学生の時に被爆された方の体験を聞いた時、同じ過ちを繰り返してはいけないと思った。当時は自分の命に代えてまで国を守る世の中で自分の好きなことができない状況だった。当たり前のようにサッカーができるのは平和であるおかげ。

 昨季、広島から期限付き移籍で長崎に加入し、夏場は平和祈念ユニホームを着ている。平和への思い、責任感を伝えるメッセージを背負ってプレーしているんだと実感する。

 今年1月、クラブで長崎市の原爆資料館を見学し、長崎でも同じような恐ろしいことが起きたと確認できた。最後まで諦めず、全力で戦う姿勢を見せ続けることで思いを伝えたい。

平和の尊さ かみしめて 両市に縁 日本代表の森保一監督(49)

 サッカー日本代表の森保一監督は二つの被爆地で人生を過ごした。その広島と長崎が試合を通して平和を発信する。「原爆で命を落とされた方、今も苦しんでいる方へ祈りをささげる場になってほしい」と願う。

 長崎市で育ち、高校卒業後はJ1広島の前身マツダSCに入団。広島でプレーし、監督として3度のJ1制覇を果たした。そのJリーグが誕生して25周年。平和を考える機会が訪れたことを喜ぶ。「イベントとして人が集まるのではなく、サッカーができる平和を会場全体でかみしめてほしい」と望む。ピースマッチの意義を一人一人が考えることが大切だと感じる。

 広島の監督時代、ホームで試合がある朝は、平和記念公園を訪れた。慰霊碑や原爆ドームが見える元安川のほとりで手を合わせた。広島が初めて8月6日にホームゲームを開催した2016年。試合前、選手に語った。「広島にとっても、世界にとっても特別な日。好きなことがやれていることに感謝し、それが見ている人に伝わるようなプレーをしよう」

 東京五輪代表とフル代表の監督を兼任する重責に就く。「五輪もワールドカップも平和だから参加できる。平和は尊いという気持ちを持つことは広島時代と変わらない」。被爆地の思いがいつも胸にある。

被爆樹のたくましさ紹介 広瀬小校長 読み聞かせ

 平和を考えるイベントやブースが出店される。その一つが、広瀬小(広島市中区)の二宮孝司校長(55)の講話「被爆樹でつながる、広島・長崎」。広島で原爆の熱線を浴びた木々が、2世、3世と芽吹き、広島、長崎両県に植樹されていることを紹介する。

 主な題材は、長崎源之助さんの絵本「ひろしまのエノキ」。基町小(同区)の児童が1979年から、原爆で幹が裂けたエノキを守る活動に取り組む実話が描かれる。昨年まで同小に16年勤務した二宮校長は「被爆から73年が経過して語り部の方も減り、継承が薄らいでいく。被爆樹は生き証人となる」。事前に応募した小学生100人に読み聞かせる予定だ。

 伝えたいのは、原爆に負けず成長するたくましさ。「両県が手を取り合って平和を考える希望の象徴となれば」と祈る。

新聞切り抜いて折り鶴を作ろう

 J1広島は、ピースマッチ当日に折り鶴を持参した小中学生をバックスタンド自由席(約1万9千席)に無料招待する。

 8日付の中国新聞朝刊18面は、点線に沿って切り抜いて説明の通りに折ると、広島のユニホームカラーである紫と黄緑の「平和の新聞折り鶴」になる。作ってスタジアムに持って行こう。

あすのイベント

■広島と長崎の選手が平和祈念ユニホームを着て入場し、黙とう。
■広島の久保允誉会長と長崎の高田明社長によるトークショー。
■広島市の松井一実市長と長崎市の田上富久市長によるキックインセレモニー。
■来場者が平和への思いを記すメッセージボードをスタジアム前に設置。
■広島市商高(東区)の「平和の鐘」と長崎市商高の「長崎の鐘」を展示。
■安田女大(広島市安佐南区)が被爆前後の原爆ドームと浦上天主堂の模型を展示。

(2018年8月10日朝刊掲載)

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