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遺品 無言の証人

被爆生徒の服と復元品

≪行方分からぬ娘の上着≫
 広島第一高女1年だった川崎寧子(やすこ)さん(当時13歳)が着ていた上着。学徒動員先の土橋付近の建物疎開作業現場で行方不明となり、現場付近の橋の上で見つかった。薄手の絹絣(きぬがすり)で作られた服は母親が自分の着物の生地から手縫いで仕立てたという。左腕の縫い込みには「廣島學徒隊」と書かれている=2004年、矢頭郁子さん寄贈。(撮影・高橋洋史)

≪復元された川崎寧子さんの上着≫
 制作 中岡千賀子さん、矢野冴香さん(石田あさきトータルファッション専門学校蔵)





≪切って脱がせた学生服≫
 広島二中1年だった堀尾英治さん(当時13歳)が着ていた学生服。建物疎開作業に動員された中島新町で被爆し、大やけどを負って本川に飛び込んで下流で助けられた。母親がリヤカーで自宅に運び、やけどで皮膚にくっついた着衣をはさみで切って脱がせた。8月10日に死亡した=2000年、堀尾祐子さん寄贈。(撮影・高橋洋史)

≪復元された堀尾英治さんの学生服≫
 制作 梅川愛子さん、秋村純子さん、岩崎奈津美さん(石田あさきトータルファッション専門学校蔵)






≪あの日着ていたセーラー服≫
 広島女学院高女生徒だった瀬川美枝子さんは上流川町の校内で被爆。縮景園に避難後、川に飛び込んで泳ぎ、自宅に帰り着いた。8月11日に死亡した弟を家族とともに捜し回り、髪が抜け始めて入院したが回復。あの日着ていたセーラー服を保存していた=2001年、瀬川真澄さん寄贈。(撮影・高橋洋史)

≪復元された瀬川美枝子さんのセーラー服≫
 制作 新谷智恵さん、川野葉子さん(石田あさきトータルファッション専門学校蔵)


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復元された衣服も原爆資料館に寄贈

 原爆の熱線や爆風で元の形をとどめない女学生の上着。はさみで切った跡のあるぼろぼろの男子学生服。命を拾った少女が着ていたセーラー服…。広島の原爆資料館に別々に寄贈され、収蔵庫で保管されている三つの被爆資料には、共通点がある。被爆65年の2010年に広島県立美術館で開かれた「廣島から広島 ドームが見つめ続けた街」展で、被爆前の姿を復元した衣服だ。

 7月下旬、石田あさきトータルファッション専門学校の4人が8年前の復元資料の寄贈のため原爆資料館を訪れた。県立美術館の企画展に協力し、復元作業に携わった教員らだ。広島市中区八丁堀で歴史を刻み、ファッション界に多くの人材を送った同校は惜しまれつつ3月末に休校した。

 教員や学生で取り組んだ復元展示は被爆した少年少女の姿を浮かび上がらせる手法として目を引いた。現物は倉庫にしまわれていたが、副校長の山崎美枝子さん(73)が校内を整理するに当たって「休校を機に活用を」と思い立ち、県立美術館学芸員を通じて原爆資料館に託すことを申し出た。

 復元には継承への思いが込められていた。広島第一高女、広島二中、広島女学院高女。対象とした被爆資料の持ち主3人が通った学校の歴史を継ぐ皆実高、観音高、広島女学院高の卒業生が、それぞれの再現作業に加わったからだ。

 学生たちは原爆資料館の収蔵庫で歳月を経た資料を苦労して採寸した。教員の中岡千賀子さん(67)は「全く同じとはいかないが、着物の古着を探すなどして当時と同じ質感をできるだけ再現した」と振り返る。

 完成した衣服のサイズは戦時下の10代の体格を物語るように小さい。「こんな小さな体で学徒動員され、働かされたのですね」。受け取った原爆資料館学芸員から、そんな声が出た。

 託された資料館は被爆資料貸し出しの際に一緒に展示するなど、新たな活用方法を検討していく。73年前の戦争や原爆をリアルに実感できない若い世代に伝えるための、貴重な「教材」になるはずだ。(岩崎誠)

(2018年8月20日朝刊掲載)

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