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社説・コラム

『想』 四車ユキコ 子や孫に伝えたい歴史

 高暮(こうぼ)ダムは神野瀬(かんのせ)川の上流、庄原市高野町高暮にある発電用ダムで、日中戦争が続く1939年、高まる電気需要に応えるため建設が計画された。反対は許されず、翌年には起工。工事は中国電力の前身の日本発送電が発注した。

 そうした県北の歴史を記録に残そうと、1970年代、私たち県北の教員や郷土史研究家、マスコミ関係者などが「県北の現代史を調べる会」を設立。私たちは証言集めを始めた。現地には5千人以上の労働者とその家族のほかに、朝鮮半島から強制的に連れて来られた労働者も2千人以上いたと推測できた。

 朝鮮人労働者は「集団」と呼ばれ、12時間の危険な労働に従事。逃亡者も多かったが、8割方は連れ戻され、彼らには過酷なリンチが加えられたという証言もあった。

 一方で、「月夜の晩に2、3人で北に逃げろ。三次方向は駄目だ」と助言した日本発送電職員や、「山道を逃げんさい」とおむすびをそっと与えた地元の主婦もいた。その証言を聞いたある教え子が、「非国民と言われなかったか」と質問した。これに対し、主婦は「主人も戦争で亡くなった。私もあの人たちも同じ犠牲者。助け合うのは当たり前です」と答えられたのが印象的だった。

 この工事での犠牲者を悼み、歴史を後世に伝えるため、地元の人たちが2000年から毎年開いているのが「高暮平和の集い」。参加者の中には「同胞の血が埋まっとるかもしれん」と靴を脱いでダム上の道を渡る朝鮮学校の生徒もいた。このことを、訪れたある子ども会の行事で話したところ、迷った子どもが父親に相談。父親は「靴は脱がんでもいいが、心の靴は脱いで渡りなさい。ダムから送られてくる電気は、いろいろな人の犠牲もあってできていることを忘れるな」と答えたのが印象に残る。

 今年の集いは9月2日午前10時半からと聞く。私もこの集いで調査時の証言を基にした紙芝居を披露する年もある。今後も地域に刻まれた歴史を学び、子や孫に伝える活動ができればと思う。(元中学教諭=三次市)

(2018年8月30日セレクト掲載)

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