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社説・コラム

『潮流』 性の防波堤論

■論説委員 森田裕美

 旧満州(中国東北部)へ渡った岐阜県の黒川開拓団についてこの夏、いくつかの報道に触れた。敗戦後、団員の命を守る代償としてソ連兵への「性接待」に差し出された女性が70年余りを経て重い口を開いた。

 同じようなことは、国内でもあった。日本では8月15日を「終戦の日」とするが、この日を境に突如、平和がもたらされたわけはない。国内にいた人々もまた、混乱の中で怒りや悲しみ、惨めさや割り切れなさに傷つき、もがいていたのだろう。

 乃南アサさんの「水曜日の凱歌(がいか)」を改めて読み、思いを致した。文化庁芸術選奨大臣賞も受けた同作は特殊慰安施設協会(RAA)を題材に少女の視点から敗戦に向き合う。

 終戦の日のわずか3日後、当時の内務省は求められてもいないのに占領軍向け慰安施設を設けるよう各府県へ指令した。「一般婦女子を守るために同族女性をもって防波堤とする方策」という。今も時折顔を見せる「性の防波堤論」である。「女事務員募集」などと集められた女性が米兵らの性処理をさせられた。

 「民族の保護という観点から早急に慰安所を」。広島県警察百年史にも記述が残る。結局数カ月で占領軍から閉鎖させられたが、百年史は「セックスコントロールとしてそれなりの成果」を上げたとも記す。

 だが、解せない。慰安施設があってもレイプは相次いだ。何より「コントロール」の犠牲になった女性の痛みは顧みられないのだろうか。今なら内外の非難を浴びるだろう。

 黒川開拓団を特集したテレビ番組は痛みを伝えつつ「娘たちの犠牲が多くの命を守った」とも解説した。それは一つの側面かもしれない。しかし「防波堤論」の追認は「原爆投下が多くの兵士の命を救った」という米国の言い分を受け入れるのと同じではないか。誰かを救うという理屈で、傷つけていい命なんてない。

(2018年9月8日朝刊掲載)

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