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連載・特集

[つなぐ] 通訳・翻訳家 ポーリーン・ボールドウィンさん

復興期の広島 今も鮮明

 「原爆の子の像」の建立60周年を迎えた今春、佐々木禎子さんの同級生だった川野登美子さん(76)が出版した「原爆の子の像 6年竹組の仲間たち」を英訳した。これまでにも、被爆者の証言映像の翻訳を数多く手掛けるなど、ヒロシマとの関わりは深い。

 原文が届くと、英訳する前に、必ず広島弁のなまりで声に出し、何度も読み返す。「被爆者が経験したことを極力自分のこととして感じ、理解しなきゃいけない。やっぱりすごいエネルギーを使う」と力を込める。

 たくましく生き抜いた復興期の広島の人々の姿を間近で見ながら育った。出生地はカナダ・オンタリオ州のサウス・ポーキュパイン(現ティミンズ市)。1960年8月、1歳の時にキリスト教の宣教師だった父ウィリアム・ボールドウィンさん(87)の仕事の関係で、貨客船「氷川丸」に乗って来日した。京都で暮らした後、62年夏、一家は広島へと移り住む。

 被爆から15年余り。街の至る所で原爆の傷痕を目の当たりにした。千田町(現中区)の自宅周辺では、顔や手にケロイドが残る人を多く見かけた。両親も自分もカナダ人だが、原爆を落とした米国への怒りの矛先となったのだろうか。幼稚園では「原爆ばばあ」「アメリカさん」と呼ばれ、滑り台やブランコの上から落とされたり、閉じ込められたりした。腕の骨を折る大けがをしたこともある。

 ウィリアムさんの仕事は布教ではなく、行政の手が行き届かない人をケアすることだった。中でも在日韓国・朝鮮人の支援に力を注いだ。父に連れられ、毎週のように通った本川沿いの土手に広がる「原爆スラム」の光景を今もはっきりと覚えている。

 父が仕事をしている間、バラックが並ぶ一角でコリアンの子どもたちと童謡を歌い、一緒に遊んだ。日々の暮らしで精いっぱいの大人たちと比べて、子どもたちの表情は常に明るかった。「どんな状況でも子どもの笑顔は希望だ」と言い切る。

 神戸市のインターナショナルスクールに進んだ後、カナダのビクトリア大へ進学。20代半ばで広島に戻り、広島女学院中・高の英語講師やテレビやラジオのリポーターなどを勤めた。2年前には中国放送が企画し、米大統領だったオバマ氏にも贈られた「まんがで語りつぐ 広島の復興」の英訳を担当。通訳・翻訳業の傍ら、市内の専門学校や大学で英語も教えている。

 ヒロシマに根差した半生を振り返り、分野こそ違うが両親と同じ道を歩んでいると感じるようになった。異国の地で黙々と支援活動に奔走した父。そして、母のエレノアさん(83)は、広島アメリカンスクール(現広島インターナショナルスクール)の開設にも携わった教育者だ。

 世界を見渡すと核被害だけでなく紛争や人権侵害が絶えず、多くの人がその事実を知らない。「無知は罪」。母から繰り返し聞かされてきた言葉を胸に広島からさまざまな問題と向き合い、「まず自分が理解し、伝えること」に徹しようと思う。(桑島美帆)

(2018年9月11日朝刊掲載)

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