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元車掌 大動脈の復旧祈る 8・6直後 被爆者運んだ芸備線 向原の河原さん

豪雨での運休「きっと克服」

 JR芸備線沿線に、73年前の夏、同線を使って広島で被爆しけがをした人たちを三次市内まで運んだ、国鉄の元車掌がいる。目的の駅の到着寸前に息絶えた人、駅周辺に上がる遺体を火葬する煙…。惨状の中を列車は走り続けた。西日本豪雨で全線の6割の運休が続く中、「芸備線は都市部と県北を結ぶ重要な役割を果たした。この苦難を乗り越え、早期復旧してほしい」と祈る。(山成耕太)

 男性は安芸高田市向原町の河原謹吾さん(92)。1944年、三次市の三次中(現三次高)を卒業後、国鉄広島鉄道局に就職した。教師になり退職する48年まで、広島車掌区三次支区で芸備線などを担当した。

 8月6日の被爆当日は非番だったが、戦地に赴く同僚の代わりに勤務。宿舎から担当する貨物車両がある広島駅の操車場へ歩いて向かっている時に背後から白い光を浴びた。立ち上った砂煙が徐々に消え視界が開けると、辺りの建物はなくなり、乗るはずの車両の床板や扉も吹き飛ばされていたという。

 自身も背中にやけどを負ったものの、無事だった同僚と相談し、列車の運行可否を判断するため、広島駅隣の矢賀駅まで確認して歩いた。その後、線路沿いを歩くけが人たち数十人を列車に乗せ、備後十日市駅(現三次駅)へ運んだという。広島原爆戦災誌には「九日、芸備線が全面的に開通し、郡部との連絡が円滑になった」と記されている。

 三次方面に向かう列車は、客車の椅子を取り外して敷いたむしろの上に寝かされたけが人を乗せ、遠くは東城駅(庄原市)まで運んだ。河原さんはおよそ1カ月間、車掌として乗車した、という。「行き先も名前も分からぬまま列車に乗せられ亡くなった人が本当にかわいそうだった」と振り返る。

 その年の9月17日には枕崎台風が県内に襲来して、鉄橋を崩落させるなど芸備線に大きな被害を与えた。河原さんは「交通の大動脈として重要な芸備線の復旧は早かった。また必ず乗り越えてくれる」と信じている。

(2018年9月21日朝刊掲載)

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