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軍管区獣医部の被爆詳述 8・6直後の広島 元部員が資料保管

専門家「新事実 貴重」

 戦時中に現在の広島市中区基町にあった中国軍管区獣医部の元部員が、1945年8月6日の原爆投下による部隊の被害をまとめた資料を保管していたことが分かった。獣医部は各部隊所属の馬の伝染病予防、傷病馬の収容などを担当。資料には、馬の被爆状況や部員の遺体があった場所の記録などが含まれている。専門家は「原爆被害の実態を巡る新たな事実も含まれた貴重な資料」としている(田中美千子)

 元部員は獣医大尉だった松村宏さん(2013年に93歳で死去)。資料は、馬の被爆状況や救護所での治療の内容をまとめた「病馬収療業務実施報告」、部員の遺体があった場所に関する表や見取り図、遺族からの書簡など。神奈川県茅ケ崎市の自宅で保管されていた。

 大半は鉛筆や万年筆で手書きされ、最も古い日付は、被爆から2日後の45年8月8日。「管内部隊戦災調査」「遺族ノ通信」など項目ごとにまとめ、「戦災関係雑書類綴(つづり) 獣医部」と墨で書かれ、赤字で「極秘」と記された表紙も残されている。

 これらとは別に、中国軍管区司令部が終戦2日前の同13日に発行した報告書「八・六広島市被害状況」もある。ガリ版刷りで全13ページ。市内の原爆被害の概況を伝えている。

 松村さんは千田町(現中区)で被爆。翌日、獣医部に行って被害状況を調べ、戦後は遺族に遺骨や扶助料を届ける業務に携わった。

 広島市出身で、現東区で被爆した妻静江さん(96)は「遺志を継ぎ、後世に残したい」と話す。遺族は9月、松村さんの資料をNPO法人ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会(東京)に寄贈した。

 原爆資料館(広島市中区)の落葉裕信学芸員は「軍馬の被爆状況や、馬の救護所で治療した事実を詳述した資料は他にないと思う。価値が高く、詳しい調査に値する資料だ」としている。

人や馬の記録 多岐に 軍管区元獣医部員 被爆資料

 被爆当時、中国軍管区獣医部に勤めていた故松村宏さんが残した資料は多岐にわたる。被爆から約2年後の1947年5月に自身の体験を書き留めた「原子爆弾遭難記録」では、冒頭に「生々シキ破壊ノ惨状モ 日ヲ経ルニ従ヒ脳裏ヨリ薄ラントス(略)当時ヲ追想シ 将来ニ記録セントス」とつづる。遺族は「一連の資料も、貴重な記録として次代に残したかったのではないか」と推し量る。

 獣医部関連の資料は紙箱にまとめられていた。原爆資料館(広島市中区)の落葉裕信学芸員は「書類がそろっており、被害の全体像が見えやすい」と評する。

 原爆投下から13日後の45年8月19日付の「人員調査表」によると、部員32人のうち健在は6人だけ。死亡や安否不明は21人、5人が負傷している。「馬匹被害状況一覧表」には各部所有の馬計301頭のうち、121頭が「戦死」したとある。行方不明や負傷も計61頭に上る。

 「病馬収療業務実施報告」からは、馬の救護所があったことも分かる。同8月13日、早稲田神社(現東区)のそばから日通寺(同)境内に移したとある。馬の血液検査結果や使用した薬の記述も。落葉学芸員は「馬は戦争に不可欠で重用されたが、被爆後の記録は数少ない。実に貴重な資料だ」と言う。

 資料には「極秘」の文字も残る。寄贈を受けたNPO法人ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会(東京)の栗原淑江さん(71)は「焼却を免れた上、戦後73年もよくぞ残っていたと思う」。同会は被爆者運動の歴史や広島、長崎を離れた被爆者の歩みに関わる資料を集めており、今回の資料の公開も検討する。

 松村さんは旧樺太出身。現在の北海道大卒業後、陸軍に入り、45年4月に旧満州(中国東北部)から広島に転属された。千田町(現中区)の下宿で被爆し、崩れた屋根の下敷きに。「遭難記録」では、胸や腕を負傷しながら、翌日、獣医部へたどり着いた経緯と道中に目撃した惨状を生々しく書き残している。

 自身の執務室で、被爆当日の朝に会う予定だった別部隊の少尉が亡くなっているのを見つけた。戦後、現東区で被爆した静江さん(96)=神奈川県茅ケ崎市=と結婚。北海道で道庁職員などとして畜産の仕事を続けた。退職後に被爆死した少尉の遺族を捜し当て、最期の様子を伝えたという。

 晩年は長女の西尾実葉枝さん(71)が住む茅ケ崎市で夫婦で暮らした。静江さんは「資料は引っ越しのつど持って回り、大事にしていた。役立ててもらえば本人も喜ぶと思う」と話す。(田中美千子)

(2018年10月5日朝刊掲載)

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