古銭の塊
18年10月22日
土蔵で溶けた父の収集品
原爆で溶けて塊になった古銭=1956年、広藤忠男さんが原爆資料館に寄贈(撮影・高橋洋史)
褐色の塊が古銭だと分かるのは、「寛永通寳」の文字がかすかに読み取れるからだ。原爆の熱で、一枚一枚が溶けて密着している。爆心地から約500メートルの中町(現広島市中区)で見つかった遺品である。
原爆資料館の平和データベースによると、そこには寄贈した広藤忠男さんの父文造さんが開業した医院があった。1945年8月6日、広藤さんは勤務先にいて助かるが、医院に残った母と姉妹、看護講習で近くの県立広島第一高女へ向かった父は犠牲になった。
数年後、実家跡を整地中に母たちの遺骨を見つける。一緒に出たのが古銭の塊だった。古美術品収集家だった父が土蔵にしまっていた。他の書画は焼失したが、陶器の花瓶は口が変形し、氷皿は6枚が引っ付いた状態で現れたという。
戦後、広島市職員になった広藤さんは開館翌年の原爆資料館に、古銭や花瓶などを寄贈する。古銭の一部は手元に残し、広島市と姉妹都市提携をしたハワイ・ホノルル市の小学校長が63年に広島を訪れた時に贈っている。その交流を伝えた本紙の記事に、広藤さんの願いが刻まれていた。「両市とも第2次世界大戦の悲劇の地。結びつきを深める役に立てば」と。(山本祐司)
(2018年10月22日朝刊掲載)