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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 米沢峯子さん―体内のガラスとともに

米沢峯子さん(86)=広島市西区

動員先の朝礼後。20人の仲間息絶える

 「このガラスは原爆を受けた記念。あの世まで持って行く」。米沢(旧姓山中)峯子さん(86)の右腕(みぎうで)には、あの日の爆風で降り注いだガラスのかけらが今でも刺(さ)さっています。13歳の夏からともに生きてきたガラス片は、傷口から奥深(おくふか)くに入り、筋肉が巻き付きました。

 軍人だった父清さんの赴任に伴い旧満州(中国東北部)で暮らした米沢さん。1943年に一家で帰国した翌春、安田高等女学校(現安田女子中高)に入学しました。しかし勉強した記憶はほとんどなく、米沢さんたち2年生も45年8月1日から楠木(くすのき)町(現西区)の誉(ほまれ)航空軽合金(誉航空工場)へ動員されます。

 アルミの棒を細く削(けず)る作業が女学生に課せられた任務。あの日の朝も白い鉢巻(はちま)きを着けて「出勤」しました。8時ごろから広場で始まった朝礼の後、旋盤(せんばん)まで戻って座ったとたん、背後の赤れんがの壁(かべ)ががらがらと崩(くず)れ落ち、砕(くだ)け散(ち)った窓ガラスが右半身に突き刺さりました。

 爆心地から約1・8キロ。次々にがれきが覆(おお)い被(かぶ)さり、トンネルの出口のような明かりが見える方へ無我夢中ではい出ました。手袋(てぶくろ)を逆さまにしたようにどろっとはがれた皮膚をぶらさげて歩く人や、戦闘帽(せんとうぼう)の部分だけ髪が残った兵士たちが歩いてきます。

 状況(じょうきょう)を把握(はあく)できないまま太田川沿いを北上し、大芝公園へ。座り込(こ)んでいると突然(とつぜん)、血だるまの女性が奇声(きせい)を上げて走り回り、目の前でばったり倒(たお)れました。どこからか小さな男の子が泣きながら近寄ってしがみつくと、女性は男の子を振(ふ)り払い、また駆けだします。「男の子のお母ちゃんだったと思うんよ。この世の地獄よ」

 ようやく古市(ふるいち)(現安佐南区)の国民学校までたどり着き、一夜を明かした後、友人の父親に連れられて、打越(うちこし)町(現西区)の自宅へ戻りました。その間、両親は娘(むすめ)の死を覚悟(かくご)していたようです。93年に亡くなった清さんの手記には、娘の遺体を見つけたらおぶって帰ろうと、へこ帯を手に捜し歩いた様子が書かれています。

 安田高女では、中心部で建物疎開(そかい)作業をしていた1年生を含め、315人の生徒と教職員13人が犠牲になり、誉航空工場に動員された20人の仲間も息絶えました。「朝礼の真っ最中だったら…」。ちょっとの差が生死を分けたのです。

 戦後も、少女たちには過酷(かこく)な日々が続きました。爆心地から1・4キロの西白島町(現中区)にあった旧校舎は全壊(ぜんかい)。近くの陸軍工兵隊兵舎跡地(あとち)への移転が決まり、生徒たちは毎日のように金づちを持って片付けに駆り出されました。「塀(へい)の下から白骨化した兵隊さんが出てきたときは、みんなで震え上がった」と言います。

 両親は爆風で傾(かたむ)いた自宅を改装して「丸中旅館」を開業、戦地から戻る軍人たちを受け入れました。52年には、新藤兼人監督(しんどう・かねとかんとく)がヒロシマの悲劇を世界中に伝えた名作映画「原爆の子」のロケ一行が宿泊(しゅくはく)します。

 原爆で生き残り、数年後に教え子らを訪ね歩く主役の教師を演じたのが、乙羽信子(おとわ・のぶこ)さん。映画の中では友人との会話で右腕を触り、語りました。ここに入ったガラスのかけらをいつまでも残しておきたい、と。「8月6日を忘れんようにね」。このせりふは米沢さんと新藤監督の雑談から生まれました。

 被爆者の夫の実(みのる)さん(91)とともに、両親から継(つ)いだ旅館は94年に廃業し、今は自宅で、長女がグアテマラ人の夫とお好み焼き店を営んでいます。各国の人たちが訪れ、英語やスペイン語が飛び交う毎日。「この店のように、いろんな国の人が自由にしゃべって、憎(にく)しみ合わず、助け合ってほしい」と思っています。(桑島美帆)

私たち10代の感想

願い 私たちが応えたい

 まだガラス片が残っている米沢さんの腕を見せてもらいました。腕の中で、ガラスが静かな存在感を放っている気がしました。「このガラスは取らない」という言葉からは、あの日のことを忘れないようにするため、という思いが伝わってきます。「憎しみ合わず、平和になってほしい」。米沢さんの願いに私たちが応えなければならない、と強く感じました。(高1川岸言織)

今ある幸せ 大切にする

 当時の米沢さんは私たちと同じ学生でしたが、勉強や遊びは許されず、毎日鉢巻きを巻いて工場で部品を造っていたそうです。原爆でたくさんの生徒が亡くなり、終戦後も新しい校舎を建てるための作業に当たるなど、青春を奪(うば)われた日常が続きました。つらい生活を送る中、小さな希望や幸せを見つけた生き方を知り、今ある幸せを大切にすることを学びました。(高1斉藤幸歩)

(2018年11月5日朝刊掲載)

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