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連載・特集

第1次世界大戦終結100年 「核」へのプロセス考えよ

毒ガス使用のベルギー・イーペル市から被爆地へ

無差別殺りく/攻撃範囲は制御不能

 第1次世界大戦(1914~18年)の終結から、11日で100年の節目を迎えた。戦場となった欧州では各国首脳が集まり、記念行事が営まれた。しかし、死者千数百万人を出したこの戦争が、原爆を含む大量破壊兵器の時代を招いたことはあまり語られていない。発端となったベルギー・イーペル市での化学兵器使用をはじめ、大戦の歴史を研究するイン・フランダース・フィールズ博物館のドミニク・デンドーベン研究員(47)に大戦の本質について考えを聞いた。

 第1次世界大戦の特徴は兵器の技術革新と大量殺りくだ。特に大砲が重要な役割を占めるようになり、人殺しが技術的な行為になった。一つの爆弾で20人以上を簡単に殺せるようになったが、砲弾を撃つ兵士は何も感じない。前線から数キロ離れた場所にいて、自分が行った殺人行為の結果が見えない。

 このため犠牲者は千数百万人にも及んだ。ベルギーの戦線では4年間に、30平方キロのエリアで約50万人が殺された。半数は行方不明のままだ。ほとんどの兵士が文字通り、大砲で粉々に吹き飛ばされた。

 1914年9月以降、西部戦線では膠着(こうちゃく)状態が続き、戦う二つの陣営の塹壕(ざんごう)が張り巡らされた。勝敗がつかず、これを打破するために新型兵器や新しい戦術が必要になった。15年4月22日、イーペルで初めて大量に使われた化学兵器の塩素ガスは膠着状態を打破するためのアイデアだった。

 しかしドイツ軍は事態を打開する策として毒ガスを活用するには、部隊が十分ではなかった。ホスゲンやマスタードガス(イペリット)など他の毒ガスも使ったが、戦争に勝つことはできなかった。何千人もの兵士が生涯、後遺症に苦しんだ。私たちは大戦中の犠牲者の1%が毒ガスで亡くなったとみている。

 第1次世界大戦は、軍部だけでなく、経済や政治など社会全体が動員された初の総力戦でもあった。プロパガンダや銃後の国民という考え方が生まれ、文化も戦争の影響を受けた。その結果、市民や社会全体への攻撃がもっともなことだと捉えられるようになった。

 この大戦を通して学ぶべきことが幾つかある。まず平和を維持しようという意識が欠落していたことで大戦が始まったことだ。いかに戦争が容易に始まるかを示している。そして、誰もが短期間の戦争だろうと予想していたこと。戦争がどう発展し、いつまで続くかは誰にも予想できない。大国同士の争いだったが、結局どの国も政治的、経済的に多くのものを失った。

 第2次世界大戦の大量破壊兵器に導くステップもみられる。毒ガス兵器は市民と兵士を無差別に殺した最初の大量破壊兵器だ。いったん放たれれば攻撃範囲やどれほどの損害を生むかはコントロールできない。

 私たちの博物館では双方向の手法を使って大戦を継承している。国籍の違いや男女の区別、市民や軍人という違いを乗り越え、一人一人の戦争の証言を紹介している。周辺には墓地や塹壕など、大戦の戦跡が複数残っている。戦争を直接目撃した人がいなくなった今、こういった遺跡が最後の戦争の目撃者だ。(メールなどを基に桑島美帆が構成)

 ドミニク・デンドーベン ベルギー・ブリュージュ出身。ブリュッセル自由大卒。アントワープ大と英ケント大で博士号(歴史学)取得。97年にイン・フランダース・フィールズ博物館に入り、教育担当などを経て98年から現職。地元の大学で第1次大戦の歴史を教えている。

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核兵器廃絶へ広島とも連携 現地で原爆展開催

 化学兵器が初めて大量に使用されたイーペル市は核兵器廃絶に向けてヒロシマ・ナガサキと手を携えている。85年に「平和都市」を宣言し、市長は平和首長会議(会長・松井一実広島市長)の副会長を務める。

 被爆地とのつながりをさらに強めるのが9日、イーペル市で始まった「ヒロシマ・ナガサキ原爆展」だ。第1次大戦の終結100周年に合わせて広島、長崎両市が「大量破壊兵器の非人道性を訴える機会に」と企画した。

 12月2日までの期間中、レプリカを含む被爆資料約20点や、惨状を伝える写真などを展示。原爆で両親を失った被爆者笠岡貞江さん(86)=広島市西区=も現地入りし、会場のイーペル博物館や大学で証言する。「戦争では常に子どもやお年寄りなど罪のない弱い人が狙われる」という事実を伝えたいという。

 イーペルで公開中の資料の一つに、学徒動員中に被爆死した広島市立第一高女(現舟入高)1年生の弁当箱がある。その後輩が今月、2年の世界史の授業で第1次大戦を学んだ。「原爆の悲惨さだけでなく、第1次大戦から第2次大戦に至った経緯を学んでほしい」と佐伯佑紀教諭(31)。

 愛国心をあおるポスターや防毒マスク、大戦で登場した戦車の写真などを見て「新型兵器」「総力戦」などのキーワードで生徒たちは話し合った。藤岡真菜さん(16)は「兵器が次々に開発され、原爆投下にもつながったことが分かった。平和な世の中にするために歴史をしっかり理解することが大切」と話していた。(桑島美帆)

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第1次世界大戦と化学兵器
 ドイツ軍がベルギー・イーペルでフランス軍兵士らに使用した塩素ガスは死者5千人を出したとされる。1899年のハーグ条約で戦場の毒物使用が禁じられていたが守られなかった。フランスや英国も毒ガス報復を開始するが、ドイツは新種の化学兵器を次々と開発。その一つ、びらん性の猛毒ガス・イペリットの名はイーペルに由来する。1925年のジュネーブ議定書で毒ガス使用を再度禁止したが製造は野放しで、日本陸軍はドイツ技術を基に大久野島(竹原市)で化学兵器製造を加速させた。

(2018年11月13日朝刊掲載)

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