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社説・コラム

『想』 藤本巧 広島の日韓史の現場で

 昨年秋、朝鮮通信使に関係する資料がユネスコの世界記憶遺産に登録された。朝鮮通信使とは、江戸時代に朝鮮の漢陽(ソウル)から江戸に派遣された外交使節団である。

 両国は古代から文化交流が盛んだったが、文禄・慶長の役でその関係が断たれた。国交回復を求める徳川政権に1607年、「信義にもとづく国交でありたい」との「国書」を携えた使節が訪れ、国交が回復した。

 私は、こうした日韓の歴史の現場を長年、カメラに収めてきた。通信使がそれぞれ11回立ち寄った呉市の下蒲刈と福山市の鞆の浦にも、かつて訪ねた。

 下蒲刈には「御馳走(ごちそう)一番館」という資料館があり、通信使にまつわる文物や、振る舞われた食事などの模型が展示されている。港を歩くと雁木(がんぎ)と呼ばれる船着き場が残っていた。朝鮮通信使だけでなく琉球・オランダの使節団も、ここから上陸したという。雁木前の通りから細い脇道に入り、あみだくじのような路地を上がったり下がったりして、通信使一行がとどまった「三之瀬朝鮮通信使宿館跡」にも足を運ぶことができた。

 鞆の浦では、古い町並みが広がり、今でも江戸時代末期の情緒を色濃く残していた。小さな島々の存在が際立つ瀬戸内の風景は、朝鮮通信使たちにも感動を与え、迎賓館であった福禅寺の対潮楼からの眺めは、日本第一だと称賛している。

 江戸時代における両国の関係は良好だったが、明治時代には「韓国併合」の時代が始まり、1945年の終戦まで、日本は朝鮮半島を統治する。

 広島市の平和記念公園にある「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」には、徴用や、自ら職を求めてやって来て、原爆の犠牲となった韓国の人たちが祭られている。毎年8月5日に営まれる慰霊祭を今年取材。この行事を含む「ヒロシマ」をテーマにした写真展を先月、東京で開いた。

 広島県の日韓史の現場を歩くと、「友好」のもろさを感じさせられる。だが一方で、「友好」がもたらす豊かな文化や人の交わりにも気付かされるのだ。(写真家=奈良県)

(2018年11月21日中国新聞セレクト掲載)

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