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社説・コラム

『想』 藤井正一 被爆者、英語への経緯

 原爆に関する平和市民講座の参加者や、外国人から時折、「hibakushaが英単語に定着した経緯を知りたい」との質問を受ける。私は「毎年8月6日、平和記念式典で広島市長が読み上げる平和宣言の英語版に大きく関係しています」と説明している。

 私は、1986年から91年まで広島市国際交流課長を務め、外国からの賓客の受け入れや英語通訳に当たった。平和宣言の英訳も業務の一つだった。

 平和宣言は当時、広島平和文化センターで日本語の文案を作り、市長を交えた有職者会議で最終的な内容を決めていた。英訳は、その日本語の原文のニュアンスを最大限生かした表現にしなければならないため、大変な重圧がかかる作業だった。

 以前は被爆者を「atomic survivor」と訳すのが一般的だった。「survivor」は生存者の意味である。だが、85年に米国の平和活動家で、広島市特別名誉市民のバーバラ・レイノルズさんから「藤井さん、被爆者は生きている間、肉体的、精神的な苦しみが続くので、この表現は適切ではありません。〝hibakusha〟を定着させることが大切ですよ」と言われた。

 私は彼女の助言を生かすため、機会あるごとに当時の荒木武市長や関係者に掛け合った。その結果、88年の平和宣言から「hibakusha」が使われるようになった。毎年8月6日午前8時15分解禁の平和宣言は、国内外の報道機関を通して全世界に発信される。その積み重ねが「hibakusha」の定着につながったといえる。

 そんな業績も残したバーバラさんを最後に少し紹介したい。51年、原爆傷害調査委員会(現放射線影響研究所)の研究員だった夫と広島を訪れ、原爆の悲惨さと被爆者の苦しみを知る。62年の「ヒロシマ平和巡礼」などで、被爆者や学者と世界を平和行脚した。

 65年、原田東岷博士と広島市西区に創設した「ワールド・フレンドシップ・センター」は、今も平和活動の拠点になっている。(元広島市国際交流課長)

(2018年11月26日中国新聞セレクト掲載)

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