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社説・コラム

西川潤さんを悼む 平和学の先駆 現場主義の人

 平和研究の草分けで、日本平和学会会長も務めた西川潤・早稲田大名誉教授が亡くなった。学生時代から早大代表として原水爆禁止運動に参加。その後も、専門の経済学をはじめ社会学、歴史学など幅広い知識を生かし、被爆地ヒロシマの理論的な支えともなったことを思い返す。筆者は大学のゼミで教えを請う機会に恵まれた。

 西川さんは日本統治時代の台湾で生まれ、小学3年で終戦。家族で東京に引き揚げてきた。平和研究や南北問題に取り組んでいる理由について、引き揚げなど戦中、戦後のつらい体験が原点となっていると、筆者は学生時代に聞いたことがある。

 複数の新聞の書評委員も務めた読書家であり、同時に、並外れた現場主義の人だった。その成果を所属する学会で発表するだけでなく、メディアで訴え続ける人でもあった。

 「think globally、act locally(地球規模で考え地域規模で行動を)」と学生に強調していた。「内発的発展」「世界システム論」といった一見難解な理論体系を説く際も、現地を踏んだフィリピン・ネグロス島などの貧困の本質を常に突いていた。

 冷戦時代の終盤、1980年代には西欧全域で「ヨーロッパをヒロシマにするな」と訴える大規模な反核デモが相次ぎ、平和博物館が次々に建設された。その実情や意義について、西川さんはいち早く日本に紹介して「欧州にはカントの平和研究の足跡がある。ロマン・ロランのヒューマニズムの精神も健在です」と高く評価していた。

 それだけに、原爆資料館をはじめとする日本の平和博物館の果たす役割についても語ってきた。亡くなるわずか2カ月前、「平和の行く先」と題する随想を中国新聞SELECT(セレクト)に寄せていただいたばかりである。その一文は「平和の行く先が、民主主義の再建にかかっているとすれば、私たちは平和博物館を『戦争の記憶』の拠点であると同時に、さらに身の回りの平和教育の拠点として大事に育てていく必要があるだろう」と結んでいた。

 米中貿易摩擦をはじめ、戦争や紛争の火種は世界にいまだ絶えない。「あまり心配することはありません。21世紀でも国際社会で日本が貢献できること、役立つことはまだまだたくさんあります」という晩年の言葉を肝に銘じたい。(大平隆彦)

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 西川潤さんは10月2日死去、82歳。

(2018年12月14日朝刊掲載)

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