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被爆7年前に撮影 広島パノラマ写真が見つかる

■編集委員 西本雅実、記者 藤村潤平

 被爆前の広島の中心街を収めたパノラマ写真が現存していることが7日分かった。戦前に「広島写真館」を営んでいた松本若次さん(1965年に76歳で死去)が1938(昭和13)年に旧商工会議所屋上から、爆心地一帯となる中島地区をはじめとした街並みを鮮明に撮影していた。研究者らは「広島の歴史を凝縮したこれほどの写真が出てきたのは初めて。第一級の記録だ」と驚いている。

 広島市中区に住む大内斉さん(51)が、祖父の松本さんが廿日市市地御前の実家に残した写真を整理して見つけた。パノラマは3カットからなり、いずれも約11×16センチの大きさ。

 4月に市制120周年となる広島の商業・文化の拠点として発展してきた中島地区(現平和記念公園)を中心に「水の都」といわれた街並みを撮影。中島本町にあったカフェ「ブラジル」や映画館「昭和シネマ」、元柳町の森永食糧工業などの建物もくっきりと写り、県産業奨励館の東側面の屋根のわん曲の詳細も分かる。爆心直下となった細工町(現大手町)の広島郵便局までを収めていた。

 1938年4月から取り壊された木げたの旧相生橋や、その直前にほぼ完成した中島本町の埋め立て地が見えることから1938年初頭に撮られたとみられる。

 松本さんは移民した米国ロサンゼルスで写真の技術を学び、1927年に家族で帰郷。現在の中区紙屋町交差点の西側そばで「広島写真館」を開き、報道写真も手掛けた。日米開戦の翌1942年にスタジオを閉め、膨大なプリントを旧地御前村の実家に移していた。

 広島市は、8月に中区の福屋八丁堀本店で開く市制施行120周年展の「メーン写真」として公開し、原爆資料館でも展示する。

(2009年3月8日朝刊掲載)


【解説】人や家並みも鮮明に 中島一帯の生活伝わる

■編集委員 西本雅実

 【解説】松本若次さんが1938年に撮った広島のパノラマ写真は、原爆投下で消えたデルタの街並みをよみがえらせ、1945年8月6日に何が起きたのかをも伝える極めて貴重なヒロシマの記録といえる。

 相生橋とつながる家並みに生家の旅館が写っていた福島和男さん(77)は「当時は川船が行き交い、チヌがよく釣れた」と見入った。写真に残る川砂の埋め立て地は公園になる予定が、日米開戦後はイモ畑になったという。両親ら家族6人を原爆で奪われ独りとなり、「砂場に埋めていた米などを手で掘り返した」と記憶をつむいだ。

 原爆資料館の資料調査研究会員で地理学が専門の竹崎嘉彦さん(51)は、「北側から撮られた県産業奨励館(原爆ドームの前身)の様子や、家並みがこれほど詳細な写真を見たのは初めて」と息をのむように見た。米軍が1945年7月25日に高度約8500メートルから撮ったデルタの写真と突き合わせれば、より正確な中島一帯のコンピューターグラフィックス(CG)復元に生かせるという。

 原爆投下の照準点となった相生橋から続く中島一帯を収めた写真は、行政や報道機関も原爆で全焼したためほとんど残っていない。中国新聞が海軍払い下げの複葉機から空撮した1枚が1936年5月21日付の紙面に掲載されており、その際に撮った可能性が高い別カットの複写3点と、「穂下写真館」の刻印がある1935年ごろ撮影した中島の部分的な複写1点の4点しか原爆資料館も現存を確認していない。

 それらの貴重な写真と比べても、人影まで写し込んだ松本さんの写真が持つ情報量は群を抜く。被爆40年と50年史を編さんした松林俊一さん(64)は「川の街だった広島のたたずまいや人の息遣いまで感じさせる第一級の写真だ。今の都市づくりからも参考にすべき点がある」という。

 「軍都」としても発展した全国7番目の都市、広島は1939年に人口40万人台にのり、6年後にデルタは壊滅する。今回見つかったパノラマ写真は、核兵器がひとたび使われればどうなるのかをも鮮明に告げている。

(2009年3月8日朝刊掲載)

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