×

ニュース

皇太子時代の初来広 克明 広島市立中央図書館 陛下の写真70点所蔵

被爆4年後 街の爪痕巡る

 天皇陛下が皇太子の頃の1949年、被爆地広島を初めて訪れられた様子を克明に収めた写真70点が見つかった。広島市が「原爆記念品」「平和塔」と見学順に説明を付けたアルバムを作成していた。米軍の原爆投下から4年後、復興に挑む市民の姿も捉えた貴重な記録だ。旧「広島市役所市史編纂(へんさん)室所蔵」の印が押され、現在は市立中央図書館が所蔵している。(西本雅実)

 宮内府(現宮内庁)49年3月24日付の内閣宛て公文(国立公文書館所蔵)には、学習院高等科へ進む15歳の春休みに「皇太子殿下来たる四月一日東京御発…」と、広島への「行啓」を明記して2日間の見学先も挙げていた。

 「皇太子殿下御来広の際の写真帖(ちょう)」と表紙に記したアルバム(約28×38センチ)は4月5日、楠瀬常猪知事や浜井信三市長たちの広島駅出迎えから始まる。爆心地の約1キロ、焼け残った鉄筋市庁舎を訪れ、熱線を刻む瓦など「原爆記念品」を見て、4階屋上から爪痕が濃い市内を展望された。市西部の県水産試験場でカキのむき身作業なども見学。宮島で宿泊した。

 翌6日は、米国が宇品港そばの旧凱旋(がいせん)館に設けていた原爆傷害調査委員会(ABCC)研究所を訪問。爆心地跡一帯に向かい、広島児童文化会館で市内小中学生の歓迎会に臨まれた。旧陸軍が拠点としていた基町に民間の寄付で約1400人収容の会館が前年に完成した際、野球道具や「世界名作物語」集を贈っていた。広島行啓のメイン行事であった。

 「あの惨劇に二度と人類をおとしいれぬよう、私たちはかたい決意をもつて平和に向(むか)わなければなりません…私も責任を自覚して勉強や修養に努力したいと思います」と述べた(中国新聞社が別会社で発行した「夕刊ひろしま」49年4月7日付全文から)。

 続いて、後に平和記念公園となる中島地区を市民に囲まれながら歩き、47年に始まった平和祭(現在の平和記念式典)の会場として建った「平和塔」を見て、木碑が立つ「供養塔」で礼拝された。

 広島への行啓や天皇行幸啓は、県が宮内庁との折衝を担い秘書課が関連資料を保存するが、49年は残っていないという。今回の70点は、県や市が撮影・依頼したものを、市が52年に置いた旧市史編纂室が整理し写真帖にしたとみられる。

「慰霊の旅」原型

「ヒロシマ戦後史」の著者、宇吹暁さん(元広島女学院大教授)の話
 今上天皇が取り組んだ「慰霊の旅」の原型ともいえる写真集だ。連合国軍総司令部(GHQ)の占領統治下、原爆被害を知ってもらいたい、訪問を通じて国内外にも伝えたいとの広島の願いも浮かび上がる。ABCC訪問は政府と地元双方の米国への配慮がうかがえる。天皇による慰霊の意味を見つめ直す作業がさらに要るだろう。

(2018年12月24日朝刊掲載)

年別アーカイブ