連載寄稿「ヒロシマ方程式を問い直す」 田中聰司 世界被団協づくり
18年12月25日
核禁条約発効へ連帯を
核兵器を明快に非合法化する初の国際法、核兵器禁止条約に、もう一つ、目立たないが画期的な規定がある。「核被害者の援助」だ。世界のヒバクシャの公的援護を義務づけた面でも史上初で、意義は大きい。
そこで思い起こされるのが、幻の「世界被団協」構想である。提唱者は日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)の創始者、藤居平一(1915~96年)。広島・長崎の被爆者援護にとどまらず、拡散し続けるヒバクシャの国際組織化と救援を当初から訴えていた。さしずめ今だったら「さあ、集まるときが来た」と、海外各地へ檄(げき)を飛ばしているに違いない。
核禁条約は、核兵器の使用・実験をした国と核被害者を抱える国に、被害者救済への医療、財政などの援助を義務づけ、国際的な協力推進を定めている(6、7条)。核軍縮論議の陰にかすみがちな核被害者に、きちんと焦点を当てた貴重な条項だ。条約に加盟するよう核保有国を説得するためにも、国際的なヒバクシャ組織と援護の仕組みづくりが不可欠である。それには、被爆国が手本になりたい。
57年の原爆医療法の制定から始まった国の被爆者対策は、ビキニ被災で高まった原水爆禁止の国民運動が原動力となった。そこでは原水爆禁止=核兵器禁止と被爆者救援とが運動の「車の両輪」に据えられ、日本被団協は56年の結成大会で「自らを救うとともに人類の危機を救おう」と宣言した(「世界への挨拶(あいさつ)」)。援護の世界化で核告発―核廃絶をと、世界被団協構想が生まれたわけである。
医師などの支援も相まって、置き去りだった在外被爆者に70年代から法が適用され、援護が拡充されてきた。しかし、2千数百回もの核実験や、核兵器製造、ウラン採掘、原発事故などによるヒバクシャは、3千万人以上といわれるも、実態すら定かでない。87年、第1回核被害者世界大会が米国で開かれ、市民団体の支援活動が各国で続いてきたが、公的援護は米国やカザフスタンなど一部での一時補償などにとどまっている。
核禁条約署名国のうち、ヒバクシャがいるのはブラジルなど数カ国に上り、うちニュージーランドは批准した。この好機に、これらの国々と連携し、行政に掛け合う日本被団協のノウハウも生かして、実態調査や援護の制度化を進めたい。
NGO被爆問題国際シンポジウム(77年、広島市)の呼びかけで「ヒバクシャ」は世界共通語となり、米国の平和運動家バーバラ・レイノルズ(1915~90年)の口ぐせ「私もまたヒバクシャです」は記念碑に刻まれた。人類全員が放射能に脅かされているとの認識の広がりを、世界被団協づくりへの力につなげたい。「セカイヒダンキョウ」を次の世界共通語にしたいものである。(ヒロシマ学研究会世話人)
(2018年12月23日中国新聞セレクト掲載)