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連載・特集

[平成という時代 中国地方の30年] 世界遺産 同時登録から22年 原爆ドーム 厳島神社

 中国地方の世界遺産の歴史は、1996年の原爆ドーム(広島市中区)と厳島神社(廿日市市宮島町)の登録から始まった。人類史上初の核兵器被害という過去を背負った「負の遺産」と、長い歴史を刻む「神の島」の同時登録から22年。広島の「二つの世界遺産」には、その地で生まれた人、暮らす人たちも深い思いを寄せている。(石川昌義)

「陳列館」再現 CG作品に 映像作家・田辺さん

 「私も、いずれは朽ちる身。被爆後の長い間、骨組みをさらし続ける原爆ドームに、いとおしさを感じています」。映像作家の田辺雅章さん(81)=広島市中区=は原爆ドームの前身、広島県産業奨励館の東隣にあった家で生まれ育った。「円屋根や外壁の色、質感。近くに咲いていた花の色まで覚えている」。だが、原爆について語ることを長い間、避けていた。

 父母と弟を原爆で失い、入市被爆したわが身。ドームの存在とセットで語られる紋切り型の「平和」に違和感が拭えなかった。1996年の世界遺産登録を後押しした署名運動にも関心がなかった。

 そんな田辺さんが、県産業奨励館と周辺の町並みをCGで再現する活動を始めた契機は、世界遺産登録だった。「原爆ドームに注目が集まっても、被爆前の陳列館の姿はほとんど注目されなかった」。田辺さんは被爆前の原爆ドームを「陳列館」と呼ぶ。完成当時の名称「県物産陳列館」に地元住民の愛着は深い。

 「輝いていた陳列館の在りし日の姿を解明することは、私にしかできない使命」と決意した。

 98年に発表した「原爆ドームと消えた街並み」以来、手掛けた映像作品は計6本。被爆前の町並みを知る住民を全国に訪ね、約650人の証言を集めた。猿楽町や細工町といった戦後に消えた近隣の地名への懐旧の念も聞いた。「米国を何度も訪問し、国立公文書館で機密解除になった米軍資料を収集した。証言と一次資料を突き合わせ、うそのない本当の姿を再現した」と自負する。

 映像作品を携え、米ニューヨークの国連本部にも出向いた。2010年に日本政府の非核特使となり、中東やドイツを訪れた。「原爆投下が戦争終結を早めた」という正当化論にも接した。「きのこ雲の下に人々の暮らしがあったことを映像で伝えることで、原爆の非人道性が胸に迫る」と実感する。

 修学旅行生たちに講演を続ける。「(原爆被害を)初めて知った」との感想も聞く。「作品の背後には多くの人の証言と深い思いがある。原爆を知り、考え、伝えてほしい。それが私の遺言です」

町家再生 移住者起業も

 江戸期以降の民家が点在し、厳島神社の門前町の雰囲気を伝える「町家通り」。その一角で生まれ育った菊川照正さん(60)が営む和風ホテルは、落ち着いた雰囲気を楽しむ外国人観光客も多く訪れる。

 菊川さんは市民団体の代表を務めるなど、町並みを守る活動の先頭に立ってきた。きっかけは2000年代前半に相次いだ町家の解体だった。「町家の家並みにこそ厳島らしさがある。世界遺産になったのに、人々の営みがつくった家並みが失われている」。危機感を共有する住民や研究者も仲間に加わった。

 世界遺産となった1996年に約298万人だった来島者は、2012年に400万人を突破。昨年は統計史上最多の456万5732人を記録した。にぎやかな表参道を離れた町家通りには、ゆっくりと散策を楽しむ人々がいる。

 町家通りに近い一角でカフェを営む佐々木恵亮さん(35)は広島修道大の学生だった03年、人力車を使った観光案内を仲間と始めた。菊川さんと知り合ったのはその頃。町家改修の先進地・京都を一緒に訪ねるなど、町並み保存への熱意に触れた。広島市安佐南区出身だが、06年のカフェ開業を機に宮島へ移住した。

 「町並みや人の営み、豊かな自然…。宮島の魅力は先人が努力して守ってきた」と佐々木さん。島内に3店舗を展開し、13年には店の近くに自宅を構えた。15年に結婚し、妻と2歳の娘と3人で暮らす。仕事場と住まいが近い環境も、サラリーマン家庭に育った佐々木さんにとっては新鮮に映る。島内には同世代の起業仲間もいる。

 最近は早朝の弥山登山が日課になった。往復約1時間半。薄暗いうちに出発し、朝日に映える瀬戸内海や原生林を眺め、コーヒーを味わう。「宮島は娘にとって生まれ故郷。ゆったりとした島の魅力を、いつまでも守っていきたい」

(2018年12月28日朝刊掲載)

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