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本川小同級生名簿を更新 復元目指す兵庫の山崎さんら 7年ぶり ハワイに生存者

原爆で焼失 「一人でも多く」

 爆心地から最も近かった本川国民学校(現本川小、広島市中区)を1945年3月に卒業した元児童らが、原爆で焼失した同学年の在籍名簿を復元する営みを地道に続けている。活動の中心は兵庫県川西市に住む山崎恭弘さん(86)。米国ハワイに住むハイキ光子さん(86)の消息が新たに分かり、名簿に書き加えた。(金崎由美)

 山崎さんは「亡き友の名前を記録することが残された者の務め」として同級生と遺族に呼び掛け、12年ほど前から名簿復元を開始。広島市内の中学や高校の卒業名簿、新聞記事などの情報と自分たちの記憶を突き合わせ、2011年までに直接の原爆犠牲者に戦後の物故者を含む「死没者」の81人と、「生存者」の31人をリストにした。生存が確認できた旧友とは、惨禍を生き抜いた苦労をねぎらい合った。

 11年以後も判明した名前を随時、書き加え、死没者は107人に上る。ハイキさんは7年ぶりの生存者判明で、32人目となった。

 きっかけは昨年11月の中国新聞記事。73年ぶりにハイキさんが母校を訪問して被爆体験を語ったことを知り、連絡が取れた。「空白が多い『未完の名簿』をまた一つ埋められた」と山崎さん。ハイキさんも「同級生たちと会いたい。母校で児童が歌ってくれた校歌を口ずさみ、昔を思い出している」と声を弾ませる。

 本川小では45年春に6年生約160人が卒業したとみられる。旧制中学や女学校の1年生として建物疎開作業などに動員され、多数が被爆死。生存者も自宅や肉親を失い、音信不通になった人が少なくない。ハイキさんも原爆に被災してほどなく、父の親類を頼って山口市に移っていた。

 山崎さん自身はあの日、広島高師付属中(現広島大付属中・高)1年生。疎開先にいて無事だったが、塚本町(現中区土橋町)の自宅にいた姉と2人の弟、伯母らを失った。地域ごと全滅したため「焼け跡で肉親を捜す人すら、自分たち以外は見当たらなかった」と振り返る。

 天体望遠鏡や人工衛星に必要な光学技術の専門家として、旧通産省工業技術院の試験所に勤めた。退職後、地元の川西市で入市被爆の体験を語り始めた。目を患い、視力をほとんど失いながら元同級生の情報収集を続ける。「生存者や遺族から、一人でも多くの手掛かりを」と願う。

(2019年1月14日朝刊掲載)

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