ヒロシマ平和創造基金 国際交流奨励賞 平和の願い 世界つなぐ
13年3月4日
国境を超えた平和活動を地道に続ける団体・個人を対象にした国際交流奨励賞の表彰式が5日、広島市中区の中国新聞ビルで開かれる。この賞は広島国際文化財団(山本信子理事長)が創設し、15回目の今回から、昨年8月6日に公益財団法人となったヒロシマ平和創造基金(理事長・川本一之中国新聞社副会長)が引き継いだ。国内外へのヒロシマ発信などに努めてきた同財団の取り組みを振り返る。
広島国際文化財団は1977年8月に設立された。中心となったのは、中国新聞社と中国放送(RCC)。その年の5月に、平和を願う市民の祭りとして産声を上げた、ひろしまフラワーフェスティバル(FF)の理念をさらに高めようとの思いが出発点となった。
これまでに取り組んできた事業は多彩だ。大きな柱は三つ。一つがヒロシマ発信である。米国の地方紙記者ら計34人を被爆地広島・長崎の取材に招いた「アキバ・プロジェクト」(79~88年)や、そのアジア版で26人を招いた「アジア記者招請プロジェクト」(92~97年)が代表的だ。
21世紀に入ると、さらに拡充した。「広島に招く」のではなく、被爆者や若者らが核兵器保有国などに出向き、原爆の被害や平和と和解のメッセージを直接伝える「広島世界平和ミッション」(2004~05年)を展開した。
芸術を通した訴えも積極的に進めてきた。例えば、核なき世界をめざす「ヒロシマ・アピールズ」ポスター制作である。日本グラフィックデザイナー協会(JAGDA)との共同で83~89年に実施。その後、中断した時期もあったが、被爆60年の2005年、16年ぶりに再開した。
二つ目の柱は、今回の国際交流奨励賞をはじめとする市民活動の支援である。95年に始めた「ヒロシマピースグラント」では、被爆体験継承と平和創造を目的とした活動を助成している。5月のFF協賛や、10月の国際親善イベント「ぺあせろべ」主催などで交流の場づくりにも努めてきた。
三つ目は、明日を担う次世代の育成だ。国内外で芸術を学ぶ若者への奨学金制度「ヒロシマスカラシップ」(84年~)や、高校生のイングリッシュスピーチコンペティション開催(84~99年)などがある。美術奨励賞「ヒロシマアートグラント」(83~97年)では、広島県内を中心に活躍する若手・中堅の美術家を応援した。
こうした取り組みのうち、奨励賞やピースグラント、ポスター制作など六つの事業は、ヒロシマ平和創造基金が引き継いだ。広島の存在感を国内外で一層高める弾みにしたい。
広島国際文化財団の歩み
1977年8月26日 設立。事業目標として「人類最初の原爆の惨禍を体験した広島市民の平和への願いと使命感を
さらに高めるとともに、名実ともに国際平和文化都市広島としての都市づくりに寄与すること」を掲
げた。
79年2月9日 秋葉忠利タフツ大准教授の提案で、米地方紙の記者を被爆地広島・長崎に招く計画が関係者
の間でまとまる。「アキバ・プロジェクト」と呼ばれ、88年までに34人を招いた。
83年3月22日 日本グラフィックデザイナー協会(JAGDA)と共同で、核のない世界をめざす「ヒロシマ・アピール
ズ」ポスターを89年まで毎年制作。一時中断したが、2005年、被爆60年を機に16年ぶりに制
作再開。
83年 尾道市瀬戸田町出身の日本画家平山郁夫氏の意向を受け、広島県内を中心に活躍している若
手・中堅美術家を奨励するため、美術奨励賞「ヒロシマアートグラント」を創設。97年まで計15回
授賞。
84年6月16日 第1回高校生のイングリッシュスピーチコンペティション(英語のスピーチ大会)を開催。99年まで
計16回実施。
84年10月11日 ヒロシマの願いである「平和と愛」をテーマに国際交流の輪を広げる「ぺあせろべ」を初めて開
催。毎年10月に国際親善イベントとして主催。
92年 アジアの記者を広島・長崎に招く「アジア記者招請プロジェクト」を開始。97年までに延べ15カ
国・地域から26人を招いた。
95年 被爆体験継承と平和創造を目指す市民活動を助成する「ヒロシマピースグラント」創設。
2001年4月 中国新聞「みんなの新聞コンクール」を創設。
04~05年 被爆60年プロジェクトとして「広島世界平和ミッション」を実施。核兵器保有国や潜在保有国など
計13カ国へ記者と一緒に被爆者や若者らを派遣した。
12年 国際交流奨励賞や、芸術を学ぶ若者への奨学金制度「ヒロシマスカラシップ」など6事業をヒロシ
マ平和創造基金に移管。
(2013年3月3日朝刊掲載)
奨励賞を創設 広島国際文化財団
ヒロシマ発信 多彩な事業
広島国際文化財団は1977年8月に設立された。中心となったのは、中国新聞社と中国放送(RCC)。その年の5月に、平和を願う市民の祭りとして産声を上げた、ひろしまフラワーフェスティバル(FF)の理念をさらに高めようとの思いが出発点となった。
これまでに取り組んできた事業は多彩だ。大きな柱は三つ。一つがヒロシマ発信である。米国の地方紙記者ら計34人を被爆地広島・長崎の取材に招いた「アキバ・プロジェクト」(79~88年)や、そのアジア版で26人を招いた「アジア記者招請プロジェクト」(92~97年)が代表的だ。
21世紀に入ると、さらに拡充した。「広島に招く」のではなく、被爆者や若者らが核兵器保有国などに出向き、原爆の被害や平和と和解のメッセージを直接伝える「広島世界平和ミッション」(2004~05年)を展開した。
芸術を通した訴えも積極的に進めてきた。例えば、核なき世界をめざす「ヒロシマ・アピールズ」ポスター制作である。日本グラフィックデザイナー協会(JAGDA)との共同で83~89年に実施。その後、中断した時期もあったが、被爆60年の2005年、16年ぶりに再開した。
二つ目の柱は、今回の国際交流奨励賞をはじめとする市民活動の支援である。95年に始めた「ヒロシマピースグラント」では、被爆体験継承と平和創造を目的とした活動を助成している。5月のFF協賛や、10月の国際親善イベント「ぺあせろべ」主催などで交流の場づくりにも努めてきた。
三つ目は、明日を担う次世代の育成だ。国内外で芸術を学ぶ若者への奨学金制度「ヒロシマスカラシップ」(84年~)や、高校生のイングリッシュスピーチコンペティション開催(84~99年)などがある。美術奨励賞「ヒロシマアートグラント」(83~97年)では、広島県内を中心に活躍する若手・中堅の美術家を応援した。
こうした取り組みのうち、奨励賞やピースグラント、ポスター制作など六つの事業は、ヒロシマ平和創造基金が引き継いだ。広島の存在感を国内外で一層高める弾みにしたい。
広島国際文化財団の歩み
1977年8月26日 設立。事業目標として「人類最初の原爆の惨禍を体験した広島市民の平和への願いと使命感を
さらに高めるとともに、名実ともに国際平和文化都市広島としての都市づくりに寄与すること」を掲
げた。
79年2月9日 秋葉忠利タフツ大准教授の提案で、米地方紙の記者を被爆地広島・長崎に招く計画が関係者
の間でまとまる。「アキバ・プロジェクト」と呼ばれ、88年までに34人を招いた。
83年3月22日 日本グラフィックデザイナー協会(JAGDA)と共同で、核のない世界をめざす「ヒロシマ・アピール
ズ」ポスターを89年まで毎年制作。一時中断したが、2005年、被爆60年を機に16年ぶりに制
作再開。
83年 尾道市瀬戸田町出身の日本画家平山郁夫氏の意向を受け、広島県内を中心に活躍している若
手・中堅美術家を奨励するため、美術奨励賞「ヒロシマアートグラント」を創設。97年まで計15回
授賞。
84年6月16日 第1回高校生のイングリッシュスピーチコンペティション(英語のスピーチ大会)を開催。99年まで
計16回実施。
84年10月11日 ヒロシマの願いである「平和と愛」をテーマに国際交流の輪を広げる「ぺあせろべ」を初めて開
催。毎年10月に国際親善イベントとして主催。
92年 アジアの記者を広島・長崎に招く「アジア記者招請プロジェクト」を開始。97年までに延べ15カ
国・地域から26人を招いた。
95年 被爆体験継承と平和創造を目指す市民活動を助成する「ヒロシマピースグラント」創設。
2001年4月 中国新聞「みんなの新聞コンクール」を創設。
04~05年 被爆60年プロジェクトとして「広島世界平和ミッション」を実施。核兵器保有国や潜在保有国など
計13カ国へ記者と一緒に被爆者や若者らを派遣した。
12年 国際交流奨励賞や、芸術を学ぶ若者への奨学金制度「ヒロシマスカラシップ」など6事業をヒロシ
マ平和創造基金に移管。
(2013年3月3日朝刊掲載)