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社説・コラム

『論』 白井晟一の原爆堂 「施主」は私たちだったのか

■特別論説委員 佐田尾信作

 和紙に似たカバーの下に完成予想図(パース)が透けて見えた。その装丁がしゃれている。親しい出版人から「白井晟一(せいいち)の原爆堂―四つの対話」(晶文社)と名付けられた対談集が届いた。「原爆堂」という未完の建築計画は公表されて60年余りがたつのに、今また光が当たろうとしている。

 白井は建築家で1905年京都市生まれ。若き日は京都で戸坂潤らに、留学したドイツではヤスパースに哲学を学び、帰国して設計の道に入る。最初は和風の私邸や茶室を手掛け、壮年になると親和銀行本店(長崎県佐世保市)などビル建築の代表作を残した。

 白井が雑誌「新建築」に原爆堂のパースを載せたのは55年のことだ。丸木位里・俊の「原爆の図」を収蔵する美術館を想定したが、施主はいない。当時の中国新聞には、夫妻に面識もないうちから共感して構想を練った―と報じられる。頼まれて仕事をする建築の世界では例のないことだった。

 堂は直径九米(メートル)程の円筒が、眼にみえぬほど静かに流れる澄明な水の中から、一辺二十三米の方錐(ほうすい)を貫通するという形をとった。

 白井はこうパースに記述する。円筒と方錐の造形は核分裂を想起させ、水に浮く様はそれを拒絶しているように映る。さらに原爆堂を「テンプル・オブ・アトミック・カタストロフィーズ」と英訳した。なぜ「アトミック・ボム」と表記しなかったのだろうか。

 対談集に携わった白井の次男で建築家の昱磨(いくま)を、東京都東久留米市の自宅に訪ねて聞いてみた。昱磨は「原爆堂は父がもともと温めていた構想です。しかも、師と仰いだ戸坂潤に倣って物理学の知見を持っていました」と言う。

 「原爆の図」美術館としての原爆堂は早々に頓挫した。だが用途を失ったことで構想はむしろ普遍性を帯びたのだろう。それが結果として原子力文明、核文明の「幾つもの破綻(カタストロフィーズ)」を予見したことになるのでは、と筆者は思い巡らせた。

 米大統領アイゼンハワーが「アトムズ・フォー・ピース」の演説で原子力の平和利用を世界に約束したのは、53年のことである。程なく第五福竜丸事件が起き、日本国内の原水爆禁止運動に火が付く。だが日米の推進勢力は日本各地での「博覧会」を通じて平和利用を盛んにキャンペーンした。広島の地も例外ではなかった。

 昱磨に教わったことだが、原爆堂の発表と同じ年に「新建築」でも原子力を肯定する特集が組まれたという。これに白井がどう反応したかは不明だが、一線を画していたと想像できる。昱磨は「父は建築の世界では煙たがられた存在だったようです」と明かす。

 年譜をじっくりたどってみた。おやっと思うのは、ドイツから帰国した33年、東京・山谷の労働者街に一時暮らしたことだ。その14年後の47年、白井は秋田県秋ノ宮村(現湯沢市)の役場の設計に掛かる。馬ぞりに乗り、雪道を踏んで工事に携わる人たちを励ましたという。地元の民家の切り妻屋根をモチーフに、村人が合議のできる会堂として仕上げている。

 戦後間もなく雪深い地で仕事を引き受けたことは、日本人が戦前のように権威に隷属しないで土地に根差して生きよう、という決意の表れだったのかもしれない。建築史家の布野修司は論集「白井晟一―精神と空間」(青幻舎)で「白井にとっての民衆は、彼の出会った地方の具体的な人びとであった」と評している。本当の施主は全ての村人なのだ―と考え、精魂込めたのではなかったか。

 白井は83年に78歳で逝く。死後、彼が言葉にした核のカタストロフィーズは悲しいことに現実となって、2011年3月の福島の原発事故に至る。反戦や反核をうたう文言こそないが、原爆堂のパースの存在感は色あせず、今を生きる私たち全てに「施主」となることを促してもいるようだ。

 ちなみに、秋ノ宮村役場は湯沢市内の温泉街に移築されて現存すると聞く。みちのくの旅の折に、一度訪ねてみたい気がする。(敬称略)

(2019年2月14日朝刊掲載)

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