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戦没五輪選手遺影を母校へ 広島 旧制修道中出身の2人 遺族「若者に伝えて」

 広島県出身のオリンピック水泳選手で戦死した、河石達吾さんと児島泰彦さんの遺影が14日、母校の修道学園に寄せられた。旧制修道中から進んだ慶応大在学中に、それぞれが1932年ロサンゼルス大会、36年ベルリン大会に出場。太平洋戦争の激戦地である硫黄島、沖縄に送られ33歳、26歳で逝った。(西本雅実)

 広島市中区の修道中・高校を、河石さんの一人息子達雄さん(74)=兵庫県尼崎市=から託された広島市立大名誉教授の曽根幹子さん(66)と、児島さんのおい正雄さん(55)=川崎市=が訪れ、田原俊典校長に手渡した。

 河石さんは現江田島市生まれ。「客船と競い勝った」という伝説が残るほど少年期から泳力に優れ、32年五輪男子100メートル自由形で銀メダルを手にした。現関西電力に勤めたが召集で5年近い軍隊生活に。除隊で結婚して間もない44年に再び召集され、陸軍中尉で硫黄島行きとなった。

 「吉報に接した時の感じは往年競技に於(おい)て勝利を獲(え)た時のそれと同じだ」。達雄さんの誕生を知り妻輝子さん(1991年死去)へ宛てた手紙の一節だ。硫黄島の日本軍は、米軍の艦砲射撃や重火器の前に「玉砕」を強いられる。45年3月17日に戦死した。

 児島さんは現坂町出身。36年五輪に日本「水上軍」(水泳チーム)の最年少17歳で出場した。シベリア鉄道経由の長旅で体調を崩し、100メートル背泳ぎ決勝は6位。40年開催が決まった東京五輪での活躍を期待されたが、日中戦争の泥沼化から政府は開催を返上。44年に沖縄海軍航空隊に配属され主計大尉を務める。

 「昭和二十年六月十二日沖縄方面ノ戦闘ニ於テ…名誉ノ戦死ヲ遂ゲラレタル」。翌46年4月12日付の戦死公報は届いたが、遺骨は見つかっていない。

 達雄さんは「父の遺影が古里の母校に収められるのはありがたい。遺影を通して若い人たちにはいろんなことを感じ、また知ってほしい」と願う。会えなかった父と同じ慶応大水泳部OBでもある。

 正雄さんは亡き父の思いを受け継ぎ、児島さんの五輪出場時の旅券や写真などを保存する。「伯父は全文英語で日記をつけていた。戦後を迎えることができたら、どんな人生を送ったのかと思います」と話した。

 今回の遺影提供は、自身は76年モントリオール大会陸上女子走り高跳びに出た曽根さんが取り組む「日本人戦没オリンピアン」の調査から。37人を確認した過程で、修道学園が「卒業生戦没者遺影」を収めていたのを知り、親族に呼び掛けた。

(2019年2月15日朝刊掲載)

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