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社説・コラム

『論』 毒ガスの島の現在 記憶から消さないために

■論説委員 森田裕美

 昨年亡くなった作家内田康夫さんに、旧陸軍が秘密裏に毒ガス開発を進めた島を舞台にした作品がある。約30年前に書かれた「隠岐伝説殺人事件」だ。凶器は遺棄された毒ガス。内田さんはあとがきに「完全な作りばなし」とし、隠岐とは無関係であると強調する。

 だが長年気になっている。内田さんは、瀬戸内海に浮かぶ離島大久野島(竹原市)の歴史に想を得て「まだ終わっていない」と問題提起したかったのではないかと。

 そんな話を持ち出すのは、最近この島について考え、学ぶことが増えたからである。

 きっかけは昨年11月、100年前に終結した第1次大戦で、初めて毒ガスが実戦使用されたベルギーのイーペルを訪ねたことだ。毒ガス兵器の登場は、ヒロシマにつながる無差別大量殺りくに道を開いた。だから100年前の大戦は被爆地と無関係ではない―。帰国してからそんな記事を書いた。

 もう一つ気掛かりなことがあった。イーペルを語源とする猛毒ガス「イペリット」がその後、被爆地からも近い大久野島で製造されていたというつながりだ。

 旧陸軍造兵廠(しょう)火工廠忠海兵器製造所が置かれた大久野島は、1929年から終戦近くまでイペリットなど国際法で使用が禁じられた毒ガスを製造した。機密保持のため「地図から消された島」だったことは広く知られていよう。島内には貯蔵庫や発電場跡など今も多くの爪痕が残る。

 ところが近年、島で暮らすウサギがネットで話題になり、いまや「ウサギの島」が代名詞。観光案内などもウサギがメインだ。

 広島の戦争について語る時、毒ガスの島としての大久野島の歴史は原爆と同じように欠かせない。だが記憶をつなぐ多様な取り組みがなされているヒロシマと比べ、どれだけの人がこの島の歴史に心を寄せているだろうか―。

 イーペルについて講演した折、竹原市忠海で郷土史を研究する新本直登さん(67)にそんなふうに問われ、はっとした。「毒ガスの記憶は、体系的な継承が不十分では」との問題意識から、新本さんは広島市の被爆体験伝承者として学んでいるという。

 継承を難しくする背景の一つに毒ガス製造や戦後の処理作業に従事した体験者の高齢化があろう。製造などに関わった人が対象の健康管理手帳所持者だけ見ても昨年10月1日現在で1461人。平均年齢は90歳だ。生の声を聞ける機会はさらに減り、記憶をどう受け継ぐかは大きな課題である。

 しかし逆に、70年以上たった今なおこれだけの人が苦しんでいるとも言える。人体への影響はないとされるが、島内や周辺海域に埋設処理や投棄された毒ガスも気になる。中国では戦中の使用だけでなく、戦後に遺棄した毒ガスで新たな被害者も生まれ、日本政府は段階的に廃棄処理を進める。

 「終わっていない」。毒ガス島歴史研究所(竹原市)の山内静代代表(70)はそう力を込めた。平和学習の案内などを通じて負の歴史を伝える営みを続ける中でメディア、行政、教育といったあらゆる場で、関心や継承の機運が停滞しているように感じるという。「不都合な過去を消そうという空気に支配されているのでは」とも。

 大久野島の歴史は、被害者にも加害者にもなり得る戦争の本質を伝える。山内さんは「生きた教材」としての活用を願う。

 次代につなぐ興味深い取り組みにも出合った。三原市の「はるのんcafe」は毒ガスマスク姿のウサギのイラストをあしらった缶バッジを店や三原港などで販売している。一昨年、三原―大久野島を結ぶ高速船が就航したのを機に経営者夫妻が「かわいいウサギの島だけど、悲しい歴史も忘れないで」との思いを込め、制作した。

 大久野島が生んだ悲劇は「加害」の側面も強く、向き合うのには痛みを伴う。それでも工夫を重ね、伝え続けねば。「地図から消された島」を、記憶から消してしまわぬために。

(2019年2月21日朝刊掲載)

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