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被爆直後 岩石研究ノート 広島大に現存

秀氏ら熱線の影響 歩いて調査 緻密な記録

 被爆直後の1945年10月から12月にかけて、広島文理科大(現広島大)の研究者たちが広島市内で岩石や瓦を採集し、その場所や特徴を文字と絵で詳細に記したノートが広島大文書館(東広島市)で見つかった。当時学生だった故秀敬(ひで・けい)・同大名誉教授が手書きしたもので、後になって、原爆が爆発した高度を推定し直す研究などに活用された。2007年に秀氏が死去した後、コピーはあったものの現物は所在が分からなくなっていた。(山本祐司)

 遺族から依頼を受けて広島大文書館が西区の自宅から資料の一部を運び出した際、ノートが紛れ込んだらしい。岩石や瓦などの標本125点は広島大総合博物館(東広島市)が保管、一部展示しており、ノートも併せた展示を今後検討するという。

 原爆投下に続き、翌月には枕崎台風が広島を直撃。米占領下で検閲を敷かれた時代に、被爆地の研究者たちが苦労して焼け跡を歩いた記録である。被爆岩石を研究する田賀井篤平・東京大名誉教授(75)は「秀氏による緻密な記述があってこそ、岩石や瓦の学術的価値が高まった」と評価する。

 ノートは、秀氏ら地質学鉱物学教室の研究者と学生らが計7回、岩石や瓦を拾って歩いたことを記す。生前の秀氏を知る原郁夫・広島大名誉教授(86)によると、当時助教授だった故小島丈児名誉教授が指導し、後に原爆資料館の館長となる故長岡省吾氏たちが参加。学術研究会議(現・日本学術会議)の「原爆災害調査研究特別委員会」が10月中旬に広島市内で行った調査を実質的に引き継いだという。

 縦21・5センチ、横15センチのノート12ページ分。地図上に歩行ルートとともに、岩石を採集した地点を番号で記す。石にも同じ番号を書いており、地図と照合できる。熱線で変化した表面の様子なども書き込む。

 ノートが注目されたのは1987年。その存在を伝え知った核物理学者で同大の故葉佐井博巳名誉教授らが、記載内容を活用しながら岩石標本の残留放射能を測定した。2003年、一人一人の被曝(ひばく)線量を推定する方式を、従来の「DS86」からより精度の高い「DS02」へと日米合同で改定する際に役立てられた。

採集地を手書き 表面の変化を観察

 ノートの表紙には「広島に投下された原子爆弾調査―特にその熱線の岩石、瓦に及ぼした影響」とタイトルが書かれている。黄ばんだ用紙をめくると、1945年10月27日から12月3日まで7回実施した調査のほか、48年6月13日の再調査の結果も加えてある。

 1回目は、広島駅から東警察署などを経て護国神社までの17カ所。2回目は、福屋百貨店の北側から紙屋町交差点を経て、爆心地付近に至る15カ所で、市中心部の電車通りや銀行の位置を正確に書いた地図が残る。

 「熱線をうけたgranite(花こう岩)の面は殆(ほと)んどfresh(新鮮)な面となる」と熱線で表面が剝がれた様子を表す。「台のセメントがmelt(溶けた)」とも記す。

高精度な線量推定に不可欠 広島大の静間名誉教授に聞く

 葉佐井博巳氏とともに広島大グループの一員として、個々の被爆者が浴びた放射線量の推定方式「DS02」のとりまとめに携わった静間清・同大名誉教授(70)は、秀敬氏のノートと岩石標本を「研究に不可欠だった」と語る。活用した当時について聞いた。

 従来の推定方式「DS86」から導き出した線量の数値は、被爆建物などを実測して得た残留放射能の数値と一致しないという問題があった。より精度の高い計算式を構築するなら、まず多くの実測データを集めることが必要だ。そこで、広島で被爆した岩石標本などを1980年代に探したが、残念なことにあまり残っていなかった。

 秀先生たちが集めた岩石標本の存在を知ったのは、87年12月。理学部の建物内で保管されていたため、戦後の核実験による放射性降下物にさらされていない。爆心地付近の当時の影響がそのまま残っている点で貴重だった。さらにノートまであることが分かり、調査前進の決め手となった。

 標本とノートにあった番号を照らし合わせ、被爆時の場所を確認できた44点について測定した。島病院や広島郵便局などの爆心直下の標本の残留放射線量から推定し、原爆がさく裂した高度を580メートルから600メートルに改めた。それを前提に、新たに構築したのがDS02である。あのノートはわれわれの研究にとって欠かせなかった。

(2019年4月22日朝刊掲載)

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