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全身やけど 17歳の悲鳴 原爆資料館に展示 焼けたブラウス

 原爆の熱線で焼かれたブラウスは、母が娘のために父のかすりの浴衣を仕立て直したものという。25日に再オープンする原爆資料館本館(広島市中区)で初めて常設展示される。被爆時に着ていた大本利子さん=当時(17)=は2カ月後、やけどに苦しみながら亡くなった。「どうあっても、生きていてほしかった」。寄贈した弟久夫さん(88)=廿日市市=たち家族のかなわなかった願いがこもる。

 ブラウスは遺影や遺品に向き合う「魂の叫び」コーナーに置かれる。1945年8月6日、利子さんは女子挺身(ていしん)隊として動員された皆実町(現南区)の食品工場から、同僚数人と建物疎開の作業をするため市中心部に向かっていた。爆心地から約1・7キロ、遮る物のない比治山橋の上で被爆した。利子さんは全身にやけどを負い、顔も分からないほどだったという。

 勤務先で被爆した父徳夫さん=当時(41)=と、旧制中3年で皆賀(現佐伯区)の動員先にいた久夫さんは疎開先の可部町(現安佐北区)で合流。翌7日から利子さんを捜し歩き、14日に宇品の陸軍船舶司令部の船着き場で見つけた。重傷者が横たわる中、手掛かりは兵隊が聞き書きした名札。「利子か」。父の呼び掛けに、かすかに応じた。

 連れ帰った疎開先では毎日、母静子さん=当時(37)=と久夫さんが手当てをし、傷痕に湧くうじ虫を箸で取り除いた。すりおろしたキュウリとうどん粉を練った「やけど薬」を貼り替えるたび、利子さんの振り絞るような悲鳴が響いた。苦しみは10月2日、息を引き取るまで続いた。

 戦後、久夫さんはきりの箱に納めたブラウスを時々、見返した。「私がおったら久夫ちゃんに嫁が来ん。死なんといけん」。最期まで家族を気遣った姉が上げた悲鳴を、「恐ろしい」と思った自分を何度も悔いた。母は仏壇の前でよく涙を流し、父も、教員になった久夫さんも経験を人に語らなかった。73年、ブラウスを寄贈する。「わが家だけのものにしておくべきではない。原爆の悲惨さを伝え、平和に役立てられるなら」。身から引き剝がされるようにつらかった。

 久夫さんは本館再開を前に、中国新聞の求めに応じて比治山橋を訪れた。「悩みがあるときは、今でも姉に話し掛けるんです。どうしたらええかねって」。姉がいたはずの人生をいつも思う。ブラウスがせめて、原爆の非道を知る契機になることを願う。(明知隼二)

(2019年4月24日朝刊掲載)

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