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[令和へ] 戦争と豪雨越え 坂の渡辺さん夫妻 平和な時代願う 

「家族との平穏 当たり前じゃない」 孫ら集える自宅再建

 坂町小屋浦の渡辺裕之さん(90)、智子さん(88)夫妻は、昭和の戦争と平成の西日本豪雨を経験した。令和元年の今年、被災した自宅を再建し、つないだ命の証しである子や孫と過ごす日を夢見る。「家族との穏やかな日々は当たり前じゃない」。令和が平和で災害のない時代になるようにと仮設住宅で願っている。(原未緒)

 豪雨に襲われた昨年7月6日夜、夫妻の自宅は高さ約2メートルまで浸水した。2階に逃げるのが精いっぱい。「もうだめかと思った」。水は階段の途中で止まり、2人は翌日夕にボートで救助された。6日昼、ゲートボールを終え、「またね」と別れた近くの友人は土石流で亡くなった。

 智子さんが命の危険を感じたのは2度目という。1945年の呉空襲に遭遇した。当時14歳。ラジオで「米軍機が呉方面に80機」と聞き、一緒にいた祖母と自宅を飛び出した。

 近くの防空壕(ごう)は人であふれていた。「私を置いていけ」。別の防空壕を探す途中、祖母は走れなくなり座り込んだ。智子さんは祖母を背負ってさまよい、二河川に架かる橋の下まで逃げた。

 川に漬かり夜空を見上げた。焼夷(しょうい)弾が星のように光を放つ。落ちた先から火の手が上がり自宅も燃えた。最初に逃げ込もうとした防空壕は焼け落ちた家屋にふさがれ、中にいた約30人全員が亡くなった。

 小屋浦に住んでいた裕之さんは、弟や叔母の安否を確認するため原爆投下直後の広島市内に入り、被爆した。当時、弟と共に国鉄に勤めていた。やけどで体の皮がむけた人たちに「水をくれ」と求められ、どうしてやることもできなかったことを悔いる。

 豪雨後、渡辺さん夫妻は娘たちと話し合い、元の場所に自宅を再建すると決めた。被災前、自宅には娘夫婦や孫、ひ孫が集まった。そんなわが家をいとおしく感じたからだ。

 「今の自分があるのは偶然が重なっただけ」。智子さんは災禍を経験し、毎日を大切に生きる思いを強くする。そして今月、6人目のひ孫が生まれた。夫妻は新しい自宅に招くのを心待ちにする。「私たちのように戦争や災害で恐ろしい思いをしない世になってほしい」。被災後、娘たちが持ち寄ってくれた家族の集合写真を見つめた。

(2019年4月29日朝刊掲載)

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