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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 坂田尚也さん―遺体片付け 耐えられず

坂田尚也さん(89)=三次市

生き残った者として 古里を良くしたい

 被爆後の広島市内をさまよい歩いた坂田尚也さん(89)は、あちらこちらに遺体が倒(たお)れていたむごい光景(こうけい)を忘れることができません。「自分は恵(めぐ)まれて死なずに済んだ」。生き残れたことへの感謝は、住民が暮らしやすい古里をつくろうと励(はげ)む原動力になりました。

 広島県板木村(現三次市三和町)の実家を離(はな)れ、広島市の修道中へ入学。4年だった15歳の時、爆心地から約3・7キロの江波町(現中区)にある三菱重工業広島造船所で被爆しました。当時は輸送船に装備を取り付ける仕事に学徒動員され、宿舎のあった宮島から連絡船で通っていました。

 1945年8月6日朝は、工場の中で朝礼を終えたばかりでした。窓から強烈(きょうれつ)な光が飛び込み、十数秒後、爆風に体が揺(ゆ)さぶられます。床に伏(ふ)せ、落ちてきたスレートの瓦(かわら)で首筋を切りましたが、大けがには至りませんでした。

 「市内の弾薬(だんやく)庫が爆発したんか」。そう思いつつ向かった診療(しんりょう)所は血の海でした。割れた窓ガラスが飛び散り、看護師や工員に突き刺(さ)さったのです。上空は赤く染まり、巨大なつぼみのような形の雲…。その下を工員が足を引きずり歩いています。ぼうぜん自失として、帰りの連絡船が迎(むか)えに来る夕方まで待ちました。

 翌7日、広島陸軍病院に着任したと聞いていた叔父の正さんを捜(さが)そうと市中心部へ向かいます。「水をください」というけが人の声に何もできないまま、積み上げられ焼かれる死体を横目にひたすら歩きました。「あの惨状は言葉にできない」と声を振(ふ)り絞(しぼ)ります。

 8日も市内へ。富士見町(現中区)辺りで憲兵に声を掛けられ、遺体の片付けを手伝いました。ドブ川に倒れ込んだ遺体を担架(たんか)に乗せて、トラックまで運びます。死臭がきつくて10人ほど運ぶと気分が悪くなり、途中(とちゅう)で作業を続けることができなくなりました。

 実家に戻(もど)りたい―。やっと切符(きっぷ)が取れた13日、芸備線の志和地駅まで汽車に乗り2時間歩いて帰宅。「生きとったんか」。病死した父代わりの祖父善四郎さんや祖母キクノさん、母良枝さんが驚(おどろ)きました。けが人を乗せた馬車や大八車を止めては、本人かどうか確かめていたそうです。

 微熱(びねつ)が続き髪(かみ)の毛も抜けました。「アルコールが効く」と聞き、どぶろくを飲んで養生したのが幸いしたのかもしれないと言います。叔父も実際は、6月から戸河内町(現安芸太田町)の病院へ勤務していて無事でした。

 翌46年春に修道中を卒業後は「食べることが第一」と食糧増産のため農業に励み、県農村青少年クラブ会長を務めたことも。地元の農協に勤め、電話が普及(ふきゅう)していない時代に、集落内の家々が一斉通話できる有線ネットワークを開発、導入しました。

 退職後の2004年にNPO法人をつくり、叔父の遺志をくみ奨学(しょうがく)金を贈(おく)る事業を始めました。「若い人が安心して暮らせるよう、地域を良くしたい」という強い思いからでした。70年代から地元の学校で証言活動を始め、14年は世界を巡(めぐ)る「ピースボート」の船旅へ参加し「言葉の壁(かべ)はあっても戦争は嫌だという気持ちは通じる」と確信しました。

 新しい元号「令和」の時代が始まりました。戦争をあおる国家や報道に流されていった子ども時代を踏(ふ)まえ、こう望みます。「自分で真実を知り、考えることが平和の礎(いしずえ)になる。戦争のない時代であり続けて」(山本祐司)

私たち10代の感想

家族と過ごす毎日 貴重

 坂田さんの話を聞いて最も衝撃(しょうげき)を受けたのは、被爆して1週間たって実家に戻るまで、自分の無事を伝えることも家族の安否を確かめることもできなかったことです。今は携帯(けいたい)電話でいつでも家族と連絡できます。坂田さんが当時どれだけ不安だったのか、私には想像もつきません。家族と安心して過ごせる毎日は当たり前ではないと、実感しました。(中3林田愛由)

一人一人の行動が必要

 「いつまでこの幸せが続くか考えて」と坂田さんは警鐘(けいしょう)を鳴らします。人工知能(AI)やインターネットが発達しても、自分で考え判断する力が大切だと教えてくれました。戦争や原爆で人の生死を間近に見た坂田さんの言葉だからこそ心に重く響(ひび)きました。争い事のない世の中をつくるのは他人ではなく自分たち自身です。一人一人の行動が必要です。(高3池田杏奈)

(2019年5月6日朝刊掲載)

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