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社説・コラム

遠藤ミチロウさんを悼む 佐伯雅啓

鋭利な言葉 詩人の魂

 遠藤ミチロウさんが広島市の平和記念公園に程近い僕の店に初めて歌いに来てくださったのは、1994年12月だった。ミチロウさんは80年代、パンクバンド「ザ・スターリン」を率いてカリスマ的な人気を誇り、解散後もソロ活動を続けていた。

 「原爆の日にライブをしようよ、僕はギャラとか経費とか考えずに来るから」と提唱してくださった。翌年の95年に、毎年8月6日に店内で開く「爆心地ライブ」が始まった。これまで24回続いている。

 ミチロウさんは僕のことをずっと「マスター」と呼んでいた。2015年に自ら監督・出演したドキュメンタリー映画「お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました」には僕も出演させてもらった。いつも笑っていて、握手するとフワッと柔らかく引き込まれていく、そんな人。

 だけど、ライブはといえば、受け止めるのがこんなに大変な人もそうはいない。不当な力を行使しようとする権力者に向かっては、その言葉と感情は、まさしく激烈だった。見る側にも体力と気力が必要な究極のパンクロック。ただし、いったん分かち合えたら、なにも思わずに自分の心を委ねることもできた。

 その深い深い魂は紛れもない詩人のものだった。研ぎ澄まされた、鋭利極まりない言葉の肌触りを知ると、逃れられなくなる。隠微な沼のようにドロドロした、でも、どこか底が抜けて明るい、陰と陽のエネルギーに満ちたあのライブの空気を知ると忘れられなくなる。

 18年の爆心地ライブで「僕がいなくなってもマスターが続けてくれる」と、ミチロウさんは言っていた。でっかい宿題に、僕は隣で苦笑いするしかなかった。今年、それが本当の宿題になってしまった。僕が思う8月6日にもっともふさわしい歌い手を失ってしまった。それを言えばミチロウさんは、天国の扉を瞬間開けて「誰しもがふさわしいんだよ」と僕を諭すだろう。

 夏が来れば、ミチロウさんの魂は、広島を長崎を訪れてくれると思う。福島生まれのミチロウさんは福島の復興を夢見て願って、僕らの中に何度でもよみがえってくると思う。

 もちろん今年も8月6日に爆心地ライブ、やります。(ライブハウス「OTIS!」店主=広島市)

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 遠藤ミチロウさんは4月25日死去、68歳。

(2019年5月15日朝刊掲載)

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