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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 広島市長の平和宣言

■論説委員 藤村潤平

市民の「心の叫び」こそ原点  <広島の一角に発する声は小さくとも、どうか、全世界の人びとの耳にとどけ>。最初は、そんな祈るような気持ちだったようだ。

 被爆2年後、広島市長として平和宣言を初めて読み上げた浜井信三さんが著書「原爆市長」(1967年)で振り返っている。

 浜井さんは、被爆地が味わった惨苦を引いて「原子力をもって争う世界戦争は人類の破滅と文明の終末を意味する」と訴えた。今につながる平和宣言の精神といえよう。

 違和感を覚えるくだりもある。原爆投下について「不幸な戦を終結に導く要因となったことは不幸中の幸い」と正当化するように表した。

 日本を占領していた連合国軍総司令部(GHQ)の目を気にしたのかもしれない。宣言を読む浜井氏の背後に、サングラスに軍服姿の将校たちが座る写真が残る。平和への思いが時代や圧力によって形を変えかねないことも記憶に刻みたい。

 近年の平和宣言を後世の人はどう感じるだろう。核兵器禁止条約を巡る、松井一実市長の紡ぐ言葉を聞いていると、そんな思いがよぎる。

 核兵器の使用や威嚇を禁じる条約は、被爆者の「こんな思いを他の誰にもさせてはならない」という叫びが形になったものといえる。にもかかわらず、日本政府に「条約に参加せよ」と真正面から訴えていない。

 むろん松井市長にも言い分はある。市長選で3選を果たした後の先月の記者会見で、自らの姿勢を改めて説明する場面があった。

 広島市長としては、被爆者の体験や思いを広く共有するための言動に重きを置くとした。国内外の7千を超える自治体でつくる平和首長会議の会長としては、核兵器廃絶に向けて禁止条約への参加を各国政府に求めるという。二つの顔を「使い分けて取り組みたい」と強調した。

 確かに松井市長は8年前の就任後、初めて被爆体験を公募して平和宣言に盛り込んだ。被爆者の思いを次代や国内外に広げる取り組みに力を入れてきたのは間違いない。

 一方で、国に対しては「批判するより連携したい」と市長の立場では対立する言動を避けている。

 だが、被爆国だからこそ条約への参加を求めるのは広島市民のごく自然な感情に他なるまい。「市民の代表である広島市長」として、それは反映すべきものではないのか。

 長崎の平和宣言は、日本政府に核兵器禁止条約への参加を求め続けている。なぜ広島と違ってくるのか。先週末に開かれた長崎市の起草委員会の初会合をのぞいた。

 起草委は、委員長の田上富久市長をはじめ、市民や専門家ら委員15人が公開の場で意見をぶつけながら宣言文を練るスタイルである。

 この日は委員が意見を述べ合い、9人が核兵器禁止条約に触れる必要性を訴えた。田上市長は会議の終盤で、禁止条約を挙げて「しっかり言及する」と明言した。

 委員の一人、元長崎大核兵器廃絶研究センター長の梅林宏道さん(81)は、広島の宣言をこう見る。「国との対立を避けることを優先するあまり、市長自らが政治的なタブーをつくっているのではないか」

 広島にも、長崎の起草委に似た組織がある。「平和宣言に関する懇談会」と呼ぶ。もともとは公募した被爆体験の中から宣言に盛り込むものを選ぶために設けた。公募をやめた今は「市民等からの意見を幅広く聴くため」に開いている。

 にもかかわらず、メンバーには公的機関の関係者が目立ち、被爆者を除いても年齢構成が50~70代に偏っている。さらに長崎と大きく異なるのは、会合を原則非公開とし、メンバーに守秘義務を課すことだ。

 ことしの会合も間もなく始まる。例年通りなら7月まで計3回続く。「幅広く聴く」というのなら若い世代を入れ、可能な範囲から公開してみてはどうだろう。

 広島市は、浜井氏に始まる平和宣言を「戦争を否定し、平和を求める広島市民の心の底からの叫び」と紹介している。その原点を忘れまい。それほどの迫力を持つには、意見のぶつかり合いも不可欠だろう。開かれた議論で確かなものにしたい。

(2019年5月16日朝刊掲載)

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