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社説・コラム

強い個性 医療支援に力 ロシア語通訳 山田英雄さんを悼む

 あくが強くて大声。話が長い。わざと偽悪ぶったそぶりや、ずけずけとしたもの言いで周囲からいらぬ反感を買うこともあった。

 だけど、困った人を放ってはおけないお人よし。私にとって山田英雄さんはそんな男だった。

 世界が二つの陣営に分かれていた1968年、社会主義に理想を抱きモスクワの大学に入学。現地の医師免許を得た。だが監視国家に愛想が尽き、卒業後に帰国。縁を切ったはずのソ連と再び深く交わるようになったのは市民調査団に通訳で参加したチェルノブイリ原発事故だった。

 その後、広島県に事務局を置く放射線被曝(ひばく)者医療国際協力推進協議会(HICARE)や九州の市民団体による被災地支援に参加。いまも根強い官僚社会の現地の流儀をくみ取り、実践的な医療支援を続けた。最近は福島第1原発事故の被災地との交流活動にも取り組んでいた。

 山田さんとの出会いは2006年。原発事故から20年後の社会を取材するため通訳を頼み、旧ソ連ベラルーシなどを3カ月歩いた。

 放射能汚染がひどく、住民の大半が逃げ出した村にも3週間住み込んだ。現地の役人に「口にしてはいけない」と警告された野菜やキノコを「村の人も食べている」と一緒に平らげたのが昨日のことのようだ。

 独裁国家のベラルーシでは取材への難癖や金銭を要求されることもしばしば。治安機関から尋問されたこともあった。その都度、山田さんが「これがこの国の現実」と代わりに頭を下げ、時には押したり引いたりでしのいでくれた。

 粗野なようだが細やかな一面もあり、原発事故で家を追われた被災者の話に男泣きすることもあった。

 あれから十数年。たまに思い出したように電話をかけてきては「また行こうや」というのが口癖だった。「はいはい」といつも軽く相づちを打っていたが、突然1人で逝ってしまった。約束は果たせなかったが、旅先で習った片言のロシア語でいつか酷寒の被災地を再訪したい。

 ダスビダーニャ(さようなら)。(滝川裕樹)

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 山田英雄さんは21日死去、72歳。

(2019年5月27日朝刊掲載)

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