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社説・コラム

社説 広島平和記念都市建設法70年 その理念 今に生かそう

 核兵器の惨禍を今に伝える原爆ドーム。広島市の都心にビルが林立するにつれ、小さくなったように見える。この辺りだけが焼け野原の面影を残す。

 傷痕を消し去るほどの復興を後押ししたのが、今夏で施行70年になる広島平和記念都市建設法だ。広島市を「恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴」と位置付けている。

 平和記念公園や原爆資料館をはじめ「ヒロシマの顔」づくりも強力に支えた。しかしこの法律が掲げる崇高な理念にふさわしい街になったと言えるだろうか。常に問い直す必要がある。

 まずは制定の経緯と果たしてきた役割を思い起こしたい。1945年8月6日、米国による人類史上初の原爆投下で広島の街は壊滅的な打撃を受けた。きのこ雲の下にいた多くの人たちは熱線に焼かれた。爆風で倒壊した家屋の下敷きになったり、放射線の影響で生命の危機にさらされたりした。その年の末までに亡くなった人は13万~15万人に上ると市は推定している。

 犠牲者の中には、朝鮮半島の人々をはじめ、東南アジアからの留学生や中国人労働者、捕虜になった米兵もいた。たとえ生き残っても、放射線による健康不安を生涯抱え続ける。

 戦争が終わっても、広島の復興への道は険しかった。都市機能が徹底的に破壊されたから、無理もなかろう。

 空襲で破壊された街は全国に100以上あった。国民は疲弊し、財源も資材も不足していた敗戦国の政府に、全ての街を迅速に復興させる力はなかった。

 打開策となったのが憲法95条に基づく初の特別法を広島のために制定することだった。全人類への警告となる原爆被災の歴史的意義を踏まえ、単なる復興ではなく、世界のモデルとなる平和記念都市を建設するという発想だ。連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー最高司令官も同意して進められた。

 49年5月に衆参両院が可決して成立、7月7日に地元の広島市で住民投票が行われた。投票率65・0%で、賛成票は91・0%を占め、市民の圧倒的な賛同を得た。被爆4年後の8月6日に公布、施行。長崎国際文化都市建設法も併せて制定された。

 恩恵は大きかった。平和関連施設の整備には費用の3分の2の国の補助が特別に得られた。34ヘクタールを超す国有地が無償譲与され、市中心部の小学校や高校、病院などの用地になった。

 最近では、2000年に被爆建物の旧日本銀行広島支店旧館が市に無償で貸与された。この法律が爆心地に近い被爆建物の活用に道を開いたと言えよう。

 だが復興については、ハード面中心、行政主導で進められたとの指摘もある。結果として健康不安や貧困に苦しんでいた被爆者が置き去りにされたのではないかとの疑念である。忘れてはならない視点だろう。

 広島を訪れる外国人が驚くほど美しい街になったとはいえ、この法律が役目を終えたわけではない。復興の先を見据えた理念を掲げているからだ。

 惨禍を知る被爆者は年々少なくなっている。「同じ苦しみをほかの誰にも味わわせたくない」という思いを受け継ぎ、世界に広めねばならない。それが平和記念都市に課せられた責務であり、法律の理念を今に生かすことにもなるはずだ。

(2019年6月8日朝刊掲載)

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