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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 新井俊一郎さん―生き残った負い目 苦悩

新井俊一郎さん(87)=広島市南区

同年代の死を無駄にしない。証言続ける

 「私は生き残ってしまいました」。新井俊一郎さん(87)は子どもたちに被爆体験を証言する時、必ずこの言葉で始めます。広島高等師範(しはん)学校(現広島大)付属中の同級生や、被爆の4カ月前まで国民学校で机を並(なら)べていた大勢の友だちが犠牲(ぎせい)になりました。友だちの母親から「私の子どもは死んだのに…」と言われ、生き残った負い目に苦しんできたのです。

 1年生で13歳だった新井さんは1945年7月下旬、同級生約80人と賀茂郡(現東広島市)へ疎開(そかい)しました。食糧増産のための「農村動員」で、寺と神社に暮らしながら、田んぼの草取りを手伝っていました。

 8月6日朝、新井さんと同級生4人は自宅への一時帰宅を認められ、広島市内へ向かいました。山陽線の八本松駅(現東広島市)のホームで列車を待っていた時です。突然(とつぜん)、空が白く光り、棒(ぼう)で殴(なぐ)られたような衝撃(しょうげき)を感じて倒(たお)れ込(こ)みました。目を開けると、巨大な入道雲のようなものが立ち上っていきました。

 何が起こったのか分からないまま、駅に着いた列車に乗り込みましたが次の瀬野駅で運転は取りやめに。歩いて市中心部に向かうしかありません。

 安芸中野駅(現安芸区)まで来ると、信じられない光景に言葉を失いました。赤い色をした集団が近づいて来るのです。両手を前に突き出し、大やけどした皮膚(ひふ)がずるりとむけ、指先で垂(た)れ下がっていました。「焼けただれた肉の塊(かたまり)」のような人々でした。

 東大橋(現南区)で、幼い姉妹とすれ違(ちが)いました。顔が風船のように腫(は)れ上がり、目と口の部分がくぼんでいます。妹と手をつないだ姉が、かすかな声で「しっかりね」と励(はげ)ましていました。あの2人の姿が忘れられません。

 その日夕に出汐町(同)の自宅に着くと、全壊(ぜんかい)した家の前で両親が座(すわ)り込んでいました。血だらけでしたが奇跡的(きせきてき)に無事でした。

 翌日、東千田町(現中区)にあった付属中を訪ねました。疎開先を出発する際、教員から託(たく)された報告書を学校に提出するためです。爆心地から約1・3キロの校舎は跡形(あとかた)もありませんでした。任務を果たして自宅に戻(もど)ると、高熱や吐き気で体調が悪くなり、寝込んでしまいました。

 被爆後に掛(か)けられた「私の子どもは死んだのに…」という一言が胸に突(つ)き刺(さ)さりました。広島大を卒業してラジオ中国(現中国放送)に入社。原爆孤児(こじ)がテーマのラジオドラマを制作しましたが、自分の体験は家族にも明かしませんでした。

 「私と同年代だった子どもたちの死を無駄(むだ)にしてはいけない」とあの日を語る心境(しんきょう)になった時、50歳を過ぎていました。付属中時代の同級生たちと協力して、1981年に広島大付属中(南区)の敷地(しきち)内に追悼(ついとう)の「謝恩碑」を建て、被爆体験や戦時中の生活をつづった本を作りました。

 広島市内での直接被爆は免れた新井さんですが、前立腺(ぜんりつせん)や腎臓(じんぞう)などのがんを4回発症し、苦しい闘病(とうびょう)を経験しています。転移ではなく、そのつど新たに発症するがんは、被爆者に多いと言われます。放射線は自分のような入市被爆者にも生涯(しょうがい)にわたる健康被害を与えるのだ、と原爆の残酷(ざんこく)さを痛感(つうかん)しています。

 病による中断を挟(はさ)みながら、10年から広島市の被爆体験証言者として活動しています。若い世代が証言を語り継(つ)ぐ「被爆体験伝承者(でんしょうしゃ)」の育成にも携(たずさ)わっています。「あの日見たことを後世に伝える責任がある」。体が許す限り、証言を続ける決意です。(新山京子)

私たち10代の感想

今できること 一生懸命

 原爆に遭い、生き残った苦痛を感じながらも懸命に生きて、平和を訴え続けている新井さんの証言を聞き、私も今できることを一生懸命やろうと思いました。「知らない」では済まされず、自分から知ろうとすることが大切です。被爆者や原爆で家族を失った遺族の平和に対する思いをはじめ、被爆建物や被爆樹木について私はジュニアライターとして取材して伝えたいです。(中1田口詩乃)

聞いた体験 家族に話す

 新井さんは「生き残った自分には使命がある」と言いながら被爆体験を語ってくれました。「原爆で同年代の子どもたちが亡(な)くなっているのに自分だけ生き残ってしまった」と思い悩(なや)んだといいます。家族を失った人も、今、生きている被爆者も、それぞれの苦しみがあると知りました。今回聞いたことを私の家族に話すなど、自分ができることを積極的にしていきます。(中1山瀬ちひろ)

(2019年6月11日朝刊掲載)

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